トルコの旅 イスタンブール再々-5 スーフィー22006年12月28日 22時06分46秒

スーフィーの続きです。

会場では総勢十数名の舞者が踊り続けています。
ちょうどこのホールの2階部分のテラスに楽団がいるのですが、次第に音楽が耳に入らないような状態になってきました。
音楽はなっているんですが妙に静かなんです。
多彩な色彩をもって回り続ける彼ら(彼女ら)を見るうちにこっちも引き込まれてしまったようです。



細かく見ていけば各自で回転する速度は違うし、明らかに技量も異なっています。
でもそんなことも徐々に気にならなくなってくるんです。
もうこれだけの長時間回り続けるとこ自体がスゴイですから。



やがて旋舞も終わりに近づいていきます。
唐突に切れるような印象で旋舞は終了し、気がついたら音楽も消えていました。
いきなり会場は静寂に包まれ、あっけに取られている間にセマーの舞者は入場時の黒いマントを身に纏っています。



そして舞をした同士、一礼を交わし言葉もなく衣擦れの音だけを残して舞者が出て行きセマーは終了するのです。
もしもイスタンブールに行くことがあったら是非見てみてください。
出来れば夏よりは冬のほうがいいような気がします。静寂さが違いますので。
ただ、冬の場合には心底体が冷えますので、ロカンタでスープを飲んでから帰路につくことを勧めます。
ほんとに、いいよ。



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トルコの旅 イスタンブール再々-4 スーフィー2006年12月25日 22時13分27秒

クリスマスを迎えたわけですが、浮いた話などありゃしない“たまご”です。
さて、前回の血生ぐらい聖夜の記事からうって変わって今夜はきれいなものをお届けします。

とはいっても実は1回すでに紹介した記事の焼き直し・・・
“過去の紹介記事”
スーフィーの紹介をもう少し詳しく行っていきます。


2003年2月末、雪ふるイスタンブールで向かったのはメブラーナ博物館です。
ここでは月に数回、博物館付属音楽学校の生徒によるセマー(旋舞)を見ることが出来ます。
大変人気のある催しなので観光シーズンにはチケットの入手も一苦労です。
まあ、2月のオフシーズンでしたので数日前でも簡単にチケットを入手することが出来ました。
(オフシーズンとはいえ前日には全てのチケットは売り切れだそうです)
少し早めについてよい場所を確保してしばらくたったころ、こんな言葉とともに催しは始まりました。

「Come,come,whoever you are
 wanderer,worshipper,lover of learning
 it does not matter,
 Ours is not a caravan of despair.
 Come,even if you have broken your vow
 a thousand times
 Come come,yet again come」

「来たれ、来たれ、我がもとへ
 さすらう人も、迷い人も、求道者でも
 かまわないから。
 我々は絶望しない者の集いだ。
 今まで千回も誓いを破った人も、
 来たれ、来たれ、何度でも」
 
イスラム神秘主義の一派メブラーナ教団を組織し指導したルーミー師の言葉です。
(日本語訳は“たまご”)

凛と通る声でこの言葉を紹介されたあと楽曲の演奏が始まります。
この教団独特のスーフィー音楽の演奏会の後、静にセマー(旋舞)が始まります。



黒いマントとのっぽの帽子を纏った一団がすべるように会場に入ってきます。
先頭にいる師らしき人がメッカの方向に祈りをささげた後、師以外の人々がいっせいに黒いマントを脱ぎ捨てます。
マントの下から色鮮やかな衣装があらわれ、1人ずつ一礼した後セマーが始まるのです。



音楽に合わせ回りはじめるのです。
くるくるとすべるように淀むことなく
回り続けていきます。



回り続けることで神との一体化をしようというスーフィー。
その中でも最も完成された形といわれるのがメブラーナのセマーです。
回る人の手を見てください。
ブレのためわかり難くなっていますが、片方の手は手のひらを上に、もう片方は下に向けられています。

天と地をあらわすものです。

まだまだ伝えたいことはあるので次回もこの話。




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トルコの旅 イスタンブール再々-3 犠牲祭22006年12月24日 14時40分39秒

今日の記事のリンク先には過激な描写・画像が含まれています。
ぶっちゃけて言うと屠殺の写真ですから、こういったものに弱い人はくれぐれも開けないでくださいね。
あくまでも見る見ないは自己責任ということでお願いします。
(自分でクリックしてみた上で文句言ってきてもきかへんもんね!)
某フォトアルバム管理人お墨付の過激画像ですから注意してね。

さて、具体的なバイラム(犠牲祭)の手順について少しだけ話していきます。
イスラム教には“ハラル”という許可された食品という考え方があります。
一方でその逆、食べてはいけないものがハラム。
ハラムで有名なものでは豚肉がありますね。
しかし肉の種類だけではなく精肉にいたる過程についても定められています。
ハラム(許可されない食物)の例としては豚肉以外に 
  血液とその副産物
  肉食動物
  爬虫類と昆虫類
  イスラーム法に従って屠殺されていない動物
  神ではない名により屠殺された動物
  動物の死体、屠殺される前に死んだ動物
このため、犠牲祭でささげられる供物も普段の食肉になる家畜の屠殺方も同じく定められています。

以下は屠場での写真です。
屠られる前の写真ですので掲載します。



注意:この後のリンク先の写真には流血等のなれない方には“過激”な写真が貼られています。
 くれぐれもご理解の上、自己の責任においてリンクを踏んで下さい。

寝かせられた牛を暴れないように押え、
"Bismillah Allah-u-Akbar"
と神の名を唱えながら頚部にナイフを入れ気管、頚動脈を切ります。

激しく暴れた後、牛は絶命します。
“流血写真1 注意!”

そのまましばし、放血が終了するまで待ちます。
“流血写真2 注意! 特に過激”

放血が終了したら丁寧に皮を剥いでいきます。
この皮は国家に託され革製品に加工され最終的な収益は福祉に用いられるとのこと。
このため皮に傷をつけないように丁寧な処理を行うそうです。
“流血写真3 注意! 特に過激”

その後、内蔵を出され枝肉として切り分けられて、供物をした家主に渡されます。
“流血写真4 注意! 微妙に過激”

これを家に持ち帰った後も作業は続きます。
写真4を見た方はお分かりでしょうがこのままでは大きすぎるため精肉して使い易いサイズに切り分けます。
これは私ら客人も行いました。



初めての経験に悪戦苦闘しながらも何とか精肉を終了したころ、お母さんの手料理が振舞われました。
もちろんお肉は先ほどささげたもの。
常識的に屠ったばかりの肉は固く食べにくいものですが、ありがたく戴きました。
命を喰らうということを実感した体験でした。


正直に言ってしまえば、牛を屠るという行為はあまり気持ちのいいものではありません。
牛も暴れますし、断末魔の鳴声は今も残っています。
でも、スーパーに並んでいるお肉は全て同じような経緯をたどっているわけです。
そういう意味でも経験しておいてよかったなと考えています。
 「自らが殺した獣でない
   殺されるところを見ていない
     自分に供するために殺したと聞いていない」
スーパーに並んだお肉を仏教で言うところの“三種の浄肉”的な発想で扱ってはいけないような気がします。
(この三種の浄肉、釈迦の時代の本来の意味とは違って今の日本では生臭坊主の言い訳にしかなってませんね)

聖夜にえらい生臭い話だなと思われるかもしれませんが、私的にはふさわしい記事なのでは?と考えています。


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デモ→ お肉は→ 美味しいよ→

トルコの旅 イスタンブール再々-2 犠牲祭12006年12月23日 22時18分20秒

すぐにでもこの記事を書こうとしていたのですが諸事情が生じて遅くなりました。
ブログへの掲載画像は某フリーのフォトアルバムに乗っけたものを使っているのですが、この記事用の写真をアップロードしたら管理人さんから怒られちゃいました。

大幅な脚色加えて再現すると・・・
「てめえ、ゴラっふざけた画像のっけてんじゃねーぞ!
  とりあえず他のユーザー様から見えねえように蓋したが
   続けるようなら、(アカウントを)殺して(これまでの画像)海に流すぞ!!」
なんて感じです。(注 上記表現は洒落です)

まあ、一般的な対応かな?というわけで管理者にも詫びを入れ、自分のHPスペースに画像を入れなおして記事を書いているわけです。

というわけで今回の記事は某管理人公認過激画像掲載?となる訳ですな。


で、何の話なの?というと表題のように犠牲祭に参加したときのお話なんです。
まあ今回の記事では犠牲祭とはなんなの説明をしていきたいと思います。

●来歴
コーラン(クルアーン)にはこのような故事が伝えられています。
その昔、子宝に恵まれなかったイブラヒームは、やっと息子イスマイールを授かりました。
その子がかわいい少年になった時、神は「息子の命を私への信仰の証としてささげなさい」と命じます。
イブラヒームは苦悩し、息子イスマイールとともに決断します。神に言われたとおりに従おうと。
父が息子を今しも犠牲にしようとしたその時、イブラヒーム親子の揺るぎない信仰心を確認したアッラーから遣わされた天使により、イスマイールは助命され、そのかわりに子羊が生贄にされたという事です。
 
この故事を基に犠牲祭は行われています。

●何をささげるの?
お国柄により違います。
故事では羊になっていますが、その他にヤギ、牛、らくだなどが献げられます。
トルコでは羊と牛がほとんどのようです。
ささげる供物もこの故事より愛情を注いで育てたものの方がよりよいとされ、手塩にかけた家畜がささげられます。
また買った家畜の場合でも数日でも自分たちで給餌を行い世話をして情を移したほうが良いそうです。

●ささげられた供物はどうなるの?
三分の一を自分達家族で食べ
三分の一を親類や友人に分け
そして三分の一は供物となる家畜を買う事のできなかった貧しい人と分け合います。
トルコでは供物の皮を国家が集めてその収益を福祉に役立てるというような話も聞きました。

だから、この日は貧しい人も豊かな人も皆そろってお肉を食べれる日でもあります。
トルコにいるときにお世話になった人は、
「みんな仲間外れなくお肉の日、それだけでも素敵でしょ?」
故事も宗教も吹っ飛ばして素敵にたとえてくれました。
 日本ではあまり理解されていませんがイスラム教は本来優しい宗教です。
 宗教で富めるものの義務としての救済を定義しているのは本当に少ないんです。
 (お布施の定義をしている宗教はたくさんありますがね・・・)
まあ、そんなお肉の日です。

●誰がささげるの?
本来は家長が行うのですが、昨今は専門の職人さんが行います。
(しかし必ず家長は屠る現場で供物を押えるなどの仕事をします)

場所も自宅の前で行うのが普通ですが、イスタンブールなどではモスクに付属した屠場で行われるようになりました。
以前は犠牲祭の日になると街のあちこちから鳴き声が起こったとのこと。

こんな犠牲祭に自分も参加させていただきました。
(フルコースです : ささげる所から頂く所まで)


  (プライバシー保護のため顏はぼかしています)
ババ(お父さんというトルコ語)が誇らしげです。
ムスリムにとってバイラム(トルコ語の犠牲祭)が出来るということは誇らしいことでもあるのです。
二人が牛を引っ張ってくる光景を見たときには“ドナドナ”が脳内BGMでした。
(いや、だって子牛だし・・・)

長くなったので続きは次回に。





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子牛→ ドナドナ→ バイラム→

トルコの旅 イスタンブール再々-12006年12月22日 05時40分20秒

「クレオパトラ」という安タバコを燻らせながらのマージャンと漫画と読書と旨いシェア飯。
まさに“沈没”の王道を行くような怠惰な日々を切り上げて向かったのがイスタンブール。
この旅行中で3度目ともなると、行くというよりかえってきた感じ。
かって知ったるこの街に戻ってきたときに唯一かってが違ったのが・・・

 雪ふってます

飛行機の機内から雪が見えたときには我が目を疑いました。 



ホテル(というかドミです)近くの通りも白く雪化粧。
ヨーロッパ風の石畳に積もる雪。
「マアステキ」
なんて乙女チックな発言をする余裕なんぞひとかけらもありません。

だって防寒着がないんですから。

1月2月でも日がさせば軽く汗ばむ陽気ともなるエジプト。
そこから急に雪ふるトルコへの入国ですから準備もしていません。
到着時の装備は・・・
Tシャツ長袖+薄手のシャツ+極限まで薄いフリース 以上
エジプトにいる時には「勇者のよろい」に匹敵するくらいの耐寒装備に思えたこれらの服も、雪ふるトルコでは「布の服」+「木の棒」状態。
いつでも死ねそうです。
つーか装備変更しないと確実に死亡。
というわけで買い物に行くことに。



とりあえず雪がやんだときに出かけました。
もちろん“徒歩”で。
写真はスルタンアフメット方面へ向かうトラム(路面電車)沿いの道路。
靴だけはそこそこましな装備だったこが幸いします。
サンダルだった日には・・・・・・
久しぶりの雪道で2度ほどこけかけながらエミノニュの市場へ向かいます。



途中で見える“ブルーモスク”ももちろん雪化粧。
「まあ、ステキ」
なんてはしゃぐ観光客を尻目にズンズン市場に向かいます。

市場で防寒用のタイツとアンダーシャツを入手し、スポーツショップでアウトドアブランドのジャケットも入手。
やっと装備が整って何とか旅を続けられそうです。



帰り道、公園のなかで雪だるま発見。
日本のと違うのは3段仕様という点でしょうか?
この仕様がトルコオリジナルなのか、ヨーロッパのアホ観光l客によるものなのかは不明。
ともかく耐寒装備に装備変更をすべく宿へと向かいます。

次はクルバンバイラム・・・一部すぷらったかも


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雪?→ タイツ?→ UMBRO?→

エジプトの旅 カイロ10 博物館32006年12月14日 13時29分14秒

カイロの最後を締めくくるのはカイロ博物館で最も印象に残った2品。



これはロゼッタストーン。
説明するまでも無いでしょうが、エジプトのロゼッタという街で見つかった石碑です。
同じ文章が3つの古代言語で書かれたもので、古代ギリシャ語、エジプトの古代民族言語、ヒエログリフでかかれたものです。
まあ、エジプトにあるのはレプリカで、本物はイギリスの大英博物館で200年にわたって展示されています。
昨今、こういった遺物の帰属や返還が問題になるケースが多いようですがこのロゼッタストーンも交渉の場に上げられているようです。

大英博物館で見たときも黒山の人だかりだった気がします。
(もうすでに30年近く前ですけどね)



こいつは展示物の山の中にこっそりあった「カバの像」。
焼き物ですが、なんとも素朴な感じでかわいらしい。
こいつも昔イギリスで見た気がするんですが・・・・
カイロ博物館は私にとってはノスタルジーというかデジャビュを感じることの多い場所でした。

数年後にはギザのピラミッドそばに移転するとの話ですが、是非この現在の博物館も残して欲しいものです。
いや展示物は少なくてもいいから・・・・・

さて、次は3度目のイスタンブールです。


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レプリカ?→ 石?→ プラスチック?→

エジプトの旅 カイロ9 博物館22006年12月13日 03時45分08秒

ところでこのカイロ博物館、物の本ではこのようにこき下ろされています。
「未整理の単なる倉庫」
「片付けられない症候群の見本」
実際に行ったものの感想としては・・・言いえて妙ですな。

でも、結構好きな感じなんですけどね。



チラホラと博物館内の写真。
ここら辺は非常にすっきりとされた感じ。
ただともかく説明不足・・・・・
折角の貴重な展示物も説明がなければその貴重さは伝わらない。

まだ、大物はいいんです。
写真のように遺跡の出土品を博物館の立体造形の一部に組み込むなんてのは本当に素敵に見えます。



自然光をふんだんに取り入れるように配置された吹き抜けもいい感じです。
結構建物そのものは本当に見ごたえあり。

ただただひたすら手か回らない感の強い博物館です。
建物は良いのですが肝心要のソフトがどうしようもない感じです。
各地の遺跡から出土し、送られてくる膨大な遺物を整理できていないんでしょうね。



何でもカイロ博物館は5年後を目処にピラミッドの近郊に移転の予定とか。
この工事費に日本の円借款が用いられるそうですが・・・
建物よりもソフトと学芸員の育成費用に金を割いたほうがいい気がします。
ただ、こういう金の使い方は日本政府は本当にへたくそなんですよね。
まあ、使われない日本交流センターよりは100万倍マシでしょうが・・・
ワイロと談合の舞台を提供して終了にならないことを祈ります。

次回は最後にもう一つミイラよりもデジャビュを感じた一品を。


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ミイラ?→ 本体の?→ 写真NG?→

エジプトの旅 カイロ8 博物館12006年12月12日 12時02分32秒

各方面から非難を浴びた「ピラミッド未訪問問題」。
でも、カイロ博物館にはミイラを見に行ってきました。



いきなりまっすぐ向かったのはミイラの安置された特別展示室。
光り輝く“黄金のマスク”が迎えてくれます。

幼少のころに滞在していたイギリスでこいつを見た気がするのですがレプリカだったのでしょうか?
それともこれは変換されたのでしょうか?
いまひとつ解りません。



こっちは黄金の棺。
まあともかくすごい存在感です。

しかし、この特別展示室ですらフィーを払えばカメラ持ち込み可能。
(もちろんフラッシュの使用は厳禁です)
日本の美術館や博物館ではあまりないサービスですが、ある意味この方がいいような気がします。
日本の博物館では結構コソコソ写真を撮っている人を見かけることがありますから。
どうせなら有料化でも撮影が出来ればいいのにと思います。



こちらはミイラ作成時に取り出した内蔵を入れる容器とその容器を入れる厨子。
ここまで内蔵を分断されても生き返ると信じているのって・・・・
という気分になってしまいます。
まあ、ナイルの気候では内蔵を取り出さないと上手くミイラ化できなかったのでしょうが。

ラムセス二世のミイラもイギリスで見た気がするんだけど・・・
大英博物館のミイラ室でみた別のものと勘違いしているんでしょうか?
デジャビューを感じる展示物が多いです。

まだまだ博物館。


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エジプトの旅 カイロ7デモ22006年12月10日 01時31分11秒

注意事項
 本来このような場所へは一介の旅行者が立ち入るべきではありません!
 領事館等でも注意が喚起されています。
 くれぐれも安易に真似をしないようにお願いいたします。


2003年にカイロで行われていたイラク戦争反対デモの続きの話。
周りにはデモ隊の数倍の警官がいるし、デモ隊も紳士的にルールを守っている。
ちょうど気が抜けた頃合にそれはやってきました。
ちょうど自分の後方から別のデモ隊がやってきたのです。

デモをして良い場所は自分の前に存在し、後ろには民衆、警官はデモの民衆を誘導するかのように左右からつめてきます・・・
ハイ、見事に巻き込まれました。



その巻き込まれたときの様子。
本当に人の渦に巻き込まれて“グルグル”回ってしまいました。
まあ、集団の半数が女性だったのでそんなに恐怖感はなかったのですがなかなかとっさに体は動かないものですね。



この合流したデモ隊が掲げていた国旗です。
イラクの国旗ではありません。
“パレスチナ”の国旗です。
正直、この旗の登場時が最も盛り上がった感があります。

最初は「何で?」と一瞬だけ思ったのですが、すぐに合点がいきました。

イラク戦争の背景はパレスチナ問題となんら変わらないということなんですね。
アメリカとイスラエルの思惑という構造ではかわりがないですからね。



ちょっとした混乱の後は何事もなかったかのように演説が続いていきます。
その後は大きな混乱もなくデモは無事終了しました。

ある意味、2003年当時で最も瞬な風景です。
こういった風景に数多く出会えたことを引き合わせてくれた人々に感謝しています。

次回は思い出博物館


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エジプトの旅 カイロ6 デモ12006年12月05日 13時04分08秒

カイロでもいつものように自堕落な沈没生活を満喫していたわけですが、こんな場所にも行ったりしています。

注意事項
 本来このような場所へは一介の旅行者が立ち入るべきではありません!
 領事館等でも注意が喚起されています。
 くれぐれも安易に真似をしないようにお願いいたします。


長い前置きないなりましたが、2003年にカイロで行われていたイラク戦争反対デモに行って来ました。
もちろん個人でではなく、在留通信社の人の取材に同行した形です。



警察官が整然と並んでいます。
このときのデモは主催がエジプト野党系の国会議員や医師などということもあり比較的理性的なものです。
でも集団ですから一歩間違えば・・・ということもあるわけですが。



デモ隊は定められた範囲の中でデモを行います。
まあ、その範囲をぐるっと警官の壁が取り囲むわけですからあまり暴走もありません。
また、マスコミに取り上げてもらってナンボという点もありますので比較的プレスに対する配慮はされていたように感じました。



やがてシュプレヒコールという形でデモが始まります。
おとなしかった参加者が少しずつボルテージアップしていくのが間近で感じられます。

この次の瞬間予想外の事態に直面するわけですがそれは次の記事で。



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