イスラムの旅 まとめページ2010年09月02日 09時38分32秒

やっと旅の記録をあらかたつけ終わりました

これでイスラムの旅 終了です
帰国から6年以上立ちましたがやっと終わりました

国によっては記事が寂しいところもあるので気が向いたら追記します
気長に待ってやってください

これからはコチラがメインのブログになります
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治療院のブログですが健康食品ウソ・ホントなどなど毒全開のコーナーも有ります
よろしければコチラもお願いします

旅がやっと終わった気分です



旅した世界の紹介ページをまとめて見れるようにしてみよう

この世界地図の赤い部分が旅した地域(このときの旅で)

  トルコ 2002年7月27日~10月15日 10月24日~11月7日

番外        “旅の始まり?” “旅の移動手段”  “モザイク”  “ツール”
イスタンブール “記1 エジプシャンバザール”  “記2 ぼられる”  “記3 ブルーモスク”
          “記4 リシュテムパシャジャミイ1”   “記4-1 リシュテムパシャジャミイ2”
          “記5 スーフィー”   “記6 ケーキ屋”  “記7 街角風景”   
          “記8 最強の地”   “記9 魚市場”   “記10 軍事博物館”
          “記11 風景色々”
カフラマンマラシュ “記1 ナイフとフォークでアイスを食べる”

  シリア 2002年10月15日~10月24日 11月7日~12月5日

デリゾール  “ユーフラテス川へ”
アレッポ    “石鹸使用法”   “記1 スークへ”   “記2 キャラバンサライ等”
ハマ      “記1 水車の町”   “記2 スークへ”   “記3 パン屋”
         “断食後の夜”   “記4 水車を破壊”
ダマスカス   “記1 ウマイヤドモスク”   “記2 スークと夕焼け”
ラタキア     “十字軍の城 サラディーン城”
ボスラ遺跡   “記1 町の中の遺跡”   “記2 子供達”   “記3 怪獣の卵?”
パルミラ遺跡  “記1 砂漠の中の遺跡”   “記2 砂に還る遺跡”
ラタキア     “記1 南部の町”  “記2 断食中の喫茶店” “記3 断食中の食い物屋”
マアルーア  “記1 キリスト教徒の隠れ里”   “記2 断崖の礼拝堂”  
シャハバ    “記1 遺跡の中の町”   “記2 モザイク博物館”  “記3 素敵なもてなし”
クネイトラ    “記1 人の住まぬ街へ 準備編”   “記2 破壊された病院”  
          “記3 廃墟の町”   “記4 国連の基地”  “記5 教会だったもの”
スウェイダー  “失敗編”
ダラー      “記1 非常食”   “記2 国境越え”  

     ヨルダン 2002年12月5日~12月24日

アンマン    “記1 アンマン到着”   “記2 遺跡発掘中”  “記3 再現!ヨルダン飯し”  
          “記4 野菜市場の巨大ナス”   “記5 円形劇場”  “記6 街の風景”  
          “記7 人物”
ジェラシュ    “記1 入場料50%OFF”   “記2 円形劇場”   “記3 ローマ円柱”  
          “記4 アルテミス神殿”  
マダバ      “バスの出会い”   “記1 モザイクの町”  “記2 エルサレムの地図”  
          “記3 宿の夜”  
別記       “ヨルダンデテロ”
ペトラ      “準備編”   “記1 インディジョーンズ”  “記2 エルハズネ”
          “記3 崖を登る”  “記4 オベリスク”   “記5 犠牲祭壇”  
          “記6 モザイク”  “記7 大通り”   “記8 山を登る”   
          “記9 山の上で待つもの”  
ヨルダンの海  “蒼い海”  “ヨルダン→エジプト(海路)”

  エジプト 2002年12月24日~2003年2月9日

国境       “入り口立ち往生”
カイロ      “記1 カイロ安宿ビル”   “記2 スーク”  “記3 ナイルの流れ”  
          “記4 街角の風景”  “記5 夜の風景”   “記6 イラク戦争反対デモ1”
          “記7 イラク戦争反対デモ2”   “記8 博物館1”   “記9 博物館2”
          “記9 博物館3”  

  またまたトルコへ 2003年2月9日~3月16日

イスタンブール “記1 雪の街”   “記2 犠牲祭1”  “記3 犠牲祭2”
          “記4 スーフィー1”   “記5 スーフィー2”  “記6 ブルーモスク”
          “記7 アヤソフィアとブルーモスク”   “記8 アヤソフィア” 
          “記9 トルコ・イスラーム博物館”  “記10 トルコ・イスラーム博物館2”  
          “記11 タクシム広場”   “記12 地下宮殿”  “記13 カーリエ美術館”
          “記14 カーリエ美術館2”  “記15 テオドシウスの城砦”
アンカラ     “記1 ビザ迷走”   “記2 博物館へ”   “記3 アナトリア文明博物館”
エルズルム   “記1 警察に保護?”   “記2 セルジューク様式”
ドゥバヤジット  “記1 ノアの箱舟伝説”

  イラン 2003年3月16日~3月20日(涙・・・)
マクー      “記1 イラン入国とウィスキー責め”
テヘラン     “記1 イラン飯と街の風景”   “記2 イランの魚屋”
イスファハン  “記1 世界の半分へ”   “記2 世界の半分”   “記3 イラン流紅茶”


  パキスタン 2003年3月20日~2003年5月17日

クエッタ   “原子力研究者と国境越え”   “交通の要所”   “埃っぽい街”
        “鉄道かバスか、それが大問題”
イスラマバード “バスルートに賭ける”   “バズ路風景”   “お酒許可証申請”
北部地域へ “記1 北部へのバス路”   “記2 花見に必須!=酒”   “記3 被害の訳”
        “記4 美しい村”   “記5 パキ北部飯”   “記6 チキンスープ”
        “記7 出会った子供たち”
ラホール  “記1 ガンダーラの街”   “記2 パキのオカマ”   “記3 魔の都”
        “記4 熱狂の夜”   “記5 恍惚の夜”   “記6 パキで夢中になった飲み物”
        “記7 街の風景”   “記8 祭の夜”   “記9 祭の夜2”
        “記10 祭の夜3”   “地震についての一言”
ペシャワール “記1 アフガン国境の街”   “記2 武器工場潜入”   “記3 街角の風景”
        “記4 バスの風景”   “記5 市場の風景”
パキ飯特集   “魅惑のパキ飯1”    “魅惑のパキ飯2”


  アフガニスタン 2003年5月17日~6月4日
国境を超えて “記1 パキスタンからアフガニスタンへ”
カブール “記1 両替商の賑わい”   “記2 物を売る人々”   “記3 911の風景”
      “記4 平和な風景”   “記5 チキンストリート”   “記6 日本食販売店?”
      “記7 お肉の風景”   “記8 街の風景”   “記9 破壊の痕跡”

バーミヤン “バーミヤンへ”   “記1 曇り空の村”   “記2 晴れの村”
       “記3 大仏跡へ1”   “記4 大仏跡へ2”   “記5 美しき村に住む人”
       “記6 バーミヤン脱出→入院へ出発”

脱出記   “アフガン→イラン→トルコ”


入院記   “トルコで入院”   “パリで入院1”   “パリで入院2”
       “帰国→再入院1”   “日本で入院2”   “入院費用 総決算”
       “追記パリの入院風景”



中東食い物紀行  
お菓子編   “中東のお菓子1”   “中東のお菓子2”   “中東のお菓子3”
食い物編   “中東ファーストフード”  “中東パスタサラダ”

旅に関わるひとり言   “ひとり言1”   “ひとり言2”   “ひとり言3”

記他   “2006年ラマダン開始”   “2006年大巡礼(ハッジ)開始”   “ビザ小話”
      “アンマン沈没日記 byあやのちゃん”


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イスラムを旅して 入院記追記2010年09月02日 08時59分49秒

パリでの入院の際の写真がいくつか出てきました

この入院時、荷物はすべて預けていたので自分のカメラはザックと一緒に預かり所に
両親が救援のため渡仏してきたときに持ってきたデジカメの画像

今でいうトイカメラ程度で携帯以下の画質ですが・・・

パリの病室から


パリはビシャ病院感染症病棟からの風景
正面に広がるのは新館の建物
CTとか特殊な検査の時は新館に移動して検査しました

アフリカには旧フランス領が多いためでしょうか?
アフリカ系の民族衣装を着た裕福そうな人が窓の下を通っていました
その堂々たる歩きっぷりと民族衣装の素晴らしい色彩に驚いたものです

パリの風景


これは両親がとった街の風景
もちろん自分は街中を散策する余裕も体力も気力も有りませんでした
パリには二週間近くいたはずですが病室とホテルと空港以外は見てません

パリから帰国02


これはパリのドゴール空港で
元気そうですが実際には10分も歩けない状態
体力落ちすぎです

ちなみに退院時の体重は76kg
パキスタンで測った体重が96kgでしたから1ヶ月半で20kg落ちました
まあ脂肪ではなく大半は筋肉と体力です

パリから帰国    自画像


コチラは機内の自分とバーミヤンで発病当初の自分
どれぐらいげっそりしたかが判ります

まあなんとか無事に帰り、その後体重も戻ってしまうわけです

よくもまあ、無事に帰れたもんだと思います
まあこの後、日本で再入院があったりするわけですが・・・

日本での入院記に書き忘れたことを少しだけ

日本での入院は当初は2週間の予定でした
結局20日間まで伸びたのですが理由は
「今回の発熱が腸チフスによるものなのか脾臓の膿瘍中の問題なのか判断がつかない」
つまり生菌によるものなのか腸チフスの後遺症的なものなのかの判断がつかないため経過観察が続いたということです

結局、血液検査、尿検査、検便等の菌検査で、一切の菌が出なかったため、脾臓の腫脹が減少していることの確認をまっての退院となったわけです

担当の先生も相当悩んだそうです
「菌が出てれば話は早いんだけど」
とつぶやいたのが印象的です

脾臓中の膿瘍の痕は結局1年後の超音波検査でも確認できるものでした
まあ、当初の直径4cmからはかなり小さくなりましたが・・・

そんなこんなで入院記の追記です




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イスラムを旅して 入院記決算2010年09月01日 09時58分03秒

日本での再入院も終了しやっとこさっとこ無罪放免となりました

結局1年ほどの旅は入院で幕を迎えてしまったわけです
最終的には入院は3カ国

2003年6月8日から22日までトルコで入院
(6月8日~17日アメリカン病院、6月17日~22日マルマラ大学病院)
2003年6月22日から7月2日までフランスで入院
2003年7月18日から8月6日まで日本で入院

結局1ヶ月半近く入院していた計算になります

そこでかかった費用の概算を示しますね
これから国外へ旅立とうという人は必ず保険に入ってくださいね


トルコ入院費用計(15日間入院)
 (アメリカン病院とマルマラ病院の合計と二回の救急移送費込)
  約345万円

イスタンブールからパリまでの移送費
 (小型ジェットチャーター、ドクター・ナース同行)
  約280万円

フランス入院費用計
 (12日間入院、内5日間は集中治療室)
  約137万円

日本での再入院費用
 (20日間入院 隔離病室)
  約16万円


こうやって見てみるとトルコでの入院費が突出して高いですね
実はフランス移送にもこの費用という意味合いがありました
高い移送費を払っても総コスト的にはあまり変わらないんだそうです

これは後で海外の保険関係に詳しい人に聞いたのですが・・・
自分のようなケースで患者を国際移送するケースは珍しいそうです
コスト的なメリットの少ないことをあまりしないそう
トルコでそのまま入院→手術に及んだ場合の費用と移送で手術した場合の費用ではトントンか移送の場合の方が高くなる
こういう場合に普通は手間のかかる移送を選択することはあまり無い模様

これはウチの両親(正確には母)が保険の限度額にかかわらず、自分の家族だったどうするかという視点で、最良の選択をして欲しいと必死になって現地のエージェントにお願いをしていたためというのもあるそうです
感謝と共に、まあ、本当に頭があがりませんなぁ

あと、最良の選択に駆けまわってくれた現地のエージェントの皆様に感謝しなくてはなりません
今回改めて資料をあさって見たのですが、現地とのファックスのやりとりは優に100枚を超えていますし、電話でのやりとりもすごい量にのぼっています
両親のフランス入りのフォローも非常に細やかでした

結局、入院費用以外に両親の渡仏費用、自分の日本帰国費用等も保険でまかなっています

これだけで約200万円

合計で980万円
約1000万のお金がかかっているわけです
保険に入っていなかったら本当に命を落としたかも知れません

自分が入った海外旅行者保険は一年間で約15万円ほどだったかな?
トータルの旅行予算の約10%を超えるため高いなあとも感じました
でも高くはないです
万が一の際にあれだけ手厚いフォローがもらえると思えば安いもんです
旅行に行かれる際には必ず入ることをお勧めします

あと安い保険のコースですと費用が賄えない場合が有ります


今回のまとめで改めて気付きましたが、
日本の医療費は世界に比べ突出して安いです
今回、20日間の入院で16万円
実費で考えても80万から90万円
フランスでの入院が集中治療室というのを考慮しても日本と同等かやや日本が安いでしょうか

こうして見ていくと
生活費の安い途上国で日本と同等の医療サービスを受けようとすれは日本以上に費用がかかるということが分かります
実際、トルコの入院では薬や点滴のコストも出ているのですが、最新の薬は日本の薬価から行くと2倍から3倍となっています
さらに入院費用が高い
個室使用で外国人受け入れ可能な病院とはいえ、日本の3倍以上かかっている計算です

こういったことからも海外に行く時には保険はかけていきましょうね
日本並の高度医療を受けるには日本の3倍程度のコストを覚悟する必要がありますから


そんなわけで約1000万をかけてなんとか生きて帰ってきました

お世話になったトルコの医療関係者、フランスの医療関係者、日本の医療関係者、なにより海外旅行保険のエージェントの皆様に謝意を述べて入院記の統括とさせていただきます





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イスラムの旅 番外編2010年08月31日 10時48分51秒

ちょっと入院費用関連の資料が揃わないので別のお話

いわば世界をまたにかけた壮大なヒキコモリとも言えるこの旅
観光で街や遺跡等に出かけないときは本当に自堕落に引き篭っていました

そんなヨルダンはアンマンでのヒキコモリ生活をアドレスの交換時に絵日記にしてくれたのがあやのちゃん

現在も日本にいないようで、現在親子バックアパッカーになっている模様

以下に素敵な絵日記を掲載

アンマンライフ01
アンマンライフ02


いや本当にこんな感じで
まあ自分はここまで寝坊してませんでしたが・・・
夜はラウンジでバックギャモンしたり情報交換したり楽しかったですね

ちなみに私は二枚目の一番上のメガネデ●
良く特徴つかんでるよね

このアンマン滞在時はエジプトに行ったらダハブでダイビングでもしようカナ?と考えていましたが、しかし
結局、易きに流れてカイロで麻雀三昧のヒキコモリ生活を堪能することに

「喰う、寝る、遊ぶ」を満喫した旅でした



次回こそ入院収支の報告を





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小沢前代表の出馬は“青おに”の反乱?2010年08月30日 10時27分49秒

イスラム旅行記も治療院も鍼灸も離れたおはなし

治療院では今のところ新聞は取っていません
でも新聞関連のニュースはチェックしたいというのもあってシェアウエアのソフト「新聞つんどく」を利用してネット上のニュースをチェックしています

このソフト5大新聞にNHKや英字新聞のニュースの表示が可能です
さらに関連ニュースの表示も可能(有償機能)で同じニュースの新聞社ごとの記事の違い等の確認に便利です
とは言っても全記事の確認はあまりにも膨大で難しいので、気になったものだけのチェックになってしまいます

唯一必ず読むのが各社の社説コラム
これは各社のエース級の記者が投入されるケースが多く読み応えが有ります

8月27日付の産経新聞の社説コラム産経紗に面白いコラムが載っていました

民主党代表戦の小沢一郎前幹事長の出馬の話についてのコラムですが比喩に「泣いた赤おに」という童話を用いています

以下に産経紗の記事を引用

【産経抄】8月27日 2010.8.27 03:16 このニュースのトピックス:産経抄  9月の民主党代表選は「赤と黒」の戦いだと、先日書いた。小沢一郎前幹事長出馬のニュースを聞いて、とうとう小沢氏は「青おに」になれなかったな、との思いも強くする。  ▼浜田廣介の名作童話『泣いた赤おに』に出てくるあの「青おに」である。村人と友達になりたいという「赤おに」に、親友の「青おに」が知恵を授ける。村で大暴れするぼくを殴れ。そうすれば、きみは村人の信頼を得られる、と。  ▼「きみにすまない」という「赤おに」を諭す、「青おに」のセリフがすばらしい。「なにか、ひとつの、めぼしいことをやりとげるには…だれかが、ぎせいに、身がわりに、なるのでなくちゃ、できないさ。」。今でもこの童話が、道徳の授業で使われる所以(ゆえん)だ。  ▼6月の政変で勝利した菅直人首相は、「脱小沢」を打ち出し、世論の支持を得た。小沢氏が今回の代表選でもそれを受け入れ、敵役を演じれば、民主党政権は安泰だったはずだ。もっともそれが、日本にとって望ましいかどうかは別問題。首相は就任以来、日韓併合をめぐる「菅談話」などろくなことをしていない。  ▼そもそも「ぎせい」という言葉が、小沢氏の辞書になかった。今の政治経済のありようにご不満のようだが、出馬の本当の理由は、自らの政治生命を守るため、との見方がもっぱらだ。首相になれば、政治とカネの問題での訴追がなくなるとの指摘もある。とすれば、まったくの「私闘」といえる。  ▼ともかく「赤おに」と「青おに」の血みどろの戦いは、村人=国民にとっては大迷惑だ。この間に円高株安が進み、日本の国際的な地位の低下も続く。どちらが勝っても、もう「おに」はこりごりということではないか。


“小沢前代表は「青おに」になれなかった”としていますがそうでしょうか
一概にそうとは言えないような気がします
小沢前代表の出馬表明以降の世論調査では内閣支持率が有意に上昇しています
解り切ったことですがこれは菅直人総理の実績じゃあないですよね

小沢前代表が“青おに”という悪役をやっているからこそとも言えますよね
もしも菅直人代表が再任された場合、比較的高い支持率で内閣の運営を始められるとも考えられるわけです


民主党が野党で小沢代表ころ、自民党との大連立の話が有りました
小沢代表が党に持ち帰ったら大ブーイングで結局ホゴになったわけです

これに関して面白い話を政治に関わっている知り合いに聞きました

この一連の騒動は
「小沢代表は大連立によって民主議員を入閣させて各省庁の一次情報(生情報)を得ようとしたのではないか」
と考えた記者がいたそうです

国会議員とはいえ与党と野党では得られる情報が全く違うそうです
与党には表裏なく得れる情報も野党には聞こえのいい情報しか出されない、そんなことがあるそうです
表裏のない情報が得られれば当時大問題になっていた年金の未記載問題など自民党を打倒できる情報が手に入る
そう考えた上で大連立をのもうとしたのではないかと予測した記者がいたそうです

この記者がそういう考えに至った理由というのがまた面白いんです
「小沢代表は碁を打つ、碁を打つ人間は意味のない手を嫌う」
だから何かしら意味があるとしてこういう考えに至ったそうです
(ちなみに小沢代表はアマ7段とかなり強いそうです)

このことを記者に問われた小沢代表は肯定も否定もせず
「わからないやつには、わからないんだよね」
とのみ話したそうです

この話を聞いたときに“腑に落ちる”という感じで、興奮したのを覚えています


こういったことを踏まえてみると
今回の小沢前代表の代表選出馬は新聞各紙で報道される「追訴忌避」でも「自身の政治家生命の確保」でもない気もします

小沢元代表は本当に“青おに”なのかもしれません

そういう意味では今度の代表戦は非常に楽しみでもあります

アフガニスタン カブールの旅92010年08月28日 12時19分01秒

ここしばらく入院記が続いて飽きたのでアップしてなかった写真をすこし


ちょっと戻ってカブールの風景

果たしていつ壊れたのかはわかりませんがカブール市内には廃墟も多くありました

アフガンカブール27



アフガンカブール28



アフガンカブール29



アフガンカブール30



タリバンと北部同盟の戦闘の時か?
それとも多国籍軍のカブール解放戦の時なのか?
よくわかりません

でもこのような廃墟に近い建物にも住んでいる人がいたりします

大丈夫かな?とも思いますが
理由あって住んでいるのでしょう

なんともいえない気持ちで廃墟を眺めていました





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イスラムを旅して 帰国そして再入院編22010年08月27日 16時58分10秒

帰国後2週間ほどでまた再入院

今度は「チフス疑い」とのためです

入院したのは千葉市の感染症指定医療機関でもある病院
ここの隔離病室に入院です

ちなみにここ、SARSにも対応可能な病室で新型インフルエンザ発生当初にも隔離用に使用された実績のある病院です

できたのは2003年5月で自分が入院したのが7月
新品の病室でした

感染拡大を防ぐため入院患者の病室の前に処置や準備がある前室のある構造で監視カメラまで有ります
最新とあって尿量測定器まであったりします

CTやMRIでの検査を受けたり、献血や検便でも結局菌は出ませんでした
結局最後まで疑いのまま法定期間である2週間をここで過ごすことになります
もちろん抗生物質や解熱剤の投与はうけています

一番フランスの病院との違いを感じた点は食事

あんまり言うと怒られるかも知れませんが、やはり日本の病院の飯はマズイです
量も少なめですし
なにより野菜が少ないですね

フランスの病院ではメイン以上の多量の付け合せの野菜が有りました
今更ながら写真を取れたらよかったのにと思います
ちなみに集中治療室に入るため一切の手荷物は病院預けになってました
デジカメもそうだったんです
このためある程度回復したた以降もフランスの入院生活の写真はないわけです

それは日本での再入院でも同じで残念ながら写真は有りません


暇な時間は持ち込んだ書籍を読んだりノートにメモしたり

先日、ノートを開いてみたら
よほど病院の食事がマズイのか退院したら食べるもの、つくるもので埋め尽くされていました
われながら食い意地が張っているというか、そこまで不味かったのかと


あとで判ったことですが・・・
自分の担当の看護師さんのひとりが幼なじみでした

いや、幼少期以降のお付き合いは全くなかったんですが、母親同士はたまに連絡をとっていたようなんですね
で、彼女が帰宅しているときに患者さんに○○さん(自分の名前)って苗字の人がいたよと母親に話をしたらしいんです
〇〇(自分の苗字)はかなり珍しいこともあって彼女の母親がうちの母親に確認して発覚しました

入院中、変なことしてなくてほんとに良かった
下手すりゃ筒抜けでしたからね
でも個人情報保護法はどこに行ったのかしらとも感じた次第
なんとなく入院しているのを知っている人に見られるって恥ずかしいですね

そんなこんなで結局なにも分からずに疑いのまま退院
不謹慎な話ですがチフスとなると入院費はタダでした
まあ疑いなので自分でというか保険で払いました



次回は入院記の収支決算

リアルに海外の入院が高額というのが分かります
保険は入ったほうが良いよというお話のよてい





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いつまで続く→ 入院生活→ 費用はいくら?→

イスラムを旅して 帰国そして再入院編2010年08月26日 08時52分12秒

なんとか手術することなく無事退院が決まりました
まあ退院というよりも帰国許可という方が正しい気もします

まあ何はともあれほっとするとともに、いろんな思いがこみ上げます

病後の道中を助けてくれた見知らぬ人たち
言葉の通じにくい患者に真摯に対応してくれたトルコとフランスの医療関係者
感謝だけではない申し訳ないようななんともいえない感じです

あともう一つ感じたのは旅が終わってしまう寂しさ

もとより一年間の予定で旅をしてきたわけです
本来の計画では日本まで出来るだけ地べたをはって行く予定でした

アフガニスタンの後はイランの見残した地域をまわり
イランからパキスタンへ再入国
パキスタンからカラコルムハイウェイを抜けて中国へ
中国のイスラム圏カシュガルへ向かいそして北京へ
北京から上海へとむかい上海から船で日本へ

こんな感じの計画でしたが、入院と共に消え失せました
まあ命あってのものだねですがね

ただ自分で旅を終了出来なかったというのは結構後まで響きました
なんか宙ぶらりんな感じで
そんなこともブログで廻った土地の記事を書いたきっかけです

両親のホテルに一泊後、次の日にはフランスを出国です
ルノーのタクシー車両のデザインが奇抜で面白いです

帰国前に荷物のチェックっをしていたらいくつか忘れ物を発見

ひとつは靴
トルコからフランスに移送時に忘れてきました
まあボロボロのサンダルでしたからダメージは有りません

もう一つが重要
ずっと一緒に旅をしたナイフを忘れています
イランからトルコに向かう途中、手荷物に入っていたナイフを機長預かりで預けたのですがイスタンブールに到着時にその受取手続を忘れていました
気づいたのはフランス滞在時ですから後の祭り
VICTORINOX ピクニッカーという商品でそんなに高くはないのですが・・・
一年の間、本当に重宝しました
ブレードが大きくかつロックが可能で、缶切り、栓抜き、コルク抜きもある
果物を剥いたり、料理に使用したり
ずっとポケットに入っていました
泣く泣く諦め帰国しましたが結局同じものをまた購入しました

荷物の重さはザックと手荷物合計で30kg超、ひとりで持ち歩いていたはずなんですが病み上がりで持ち上げられませんでした
結局一部両親のトランクに入れてもらう感じで荷造りも終了です

空港へ向かい搭乗を待つのですが体力は落ちまくりです
15分と歩けないんですから
車椅子を使おうかとも思うほどです

ちなみに体重はといいますと
絶好調のパキスタン滞在時が約95kg
パリの感染症病棟で退院間際に測ったら74kg
体調を崩してからわずか3週間で20kg減った計算です
まあこれじゃ体力も落ちますね

空路日本に向かい迎えに来ていたワゴンハイヤーで帰宅
ともかく横になってその日は終了です

結局入院生活は6月17日のイスタンブールから始まり7月2日のパリで終了
トータル16日間の入院生活でした

日本に帰ってきてからは自宅療養の日々
少しづつ歩く距離を増やすように自宅内をうろうろしていました

ところが7月17日に発熱
下痢もないし風邪かと思いましたが、翌日診療所に向かって診ていただいたら、既往歴から入院を薦められました

結局千葉市の法定指定伝染病対応病院の感染症用隔離病室で入院することに
「再発」ではなく「疑い」ですが法により最低2週間の隔離となりました

まあこのへんの詳しい話は次回にでも




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いつまで続く→ 入院生活→ 費用はいくら?→

イスラムを旅して 入院編32010年08月25日 18時20分58秒

さて集中治療室から感染症病棟へ転床です

比較的広いワンルームのような病室です
シャワーも備え付けられており、先生に聞いたら入浴もOKとのこと

久方ぶりの入浴で自分の状態がいかに悪かったか確認
わずか10分程度の入浴時間、立ってられないのです
また入浴後に気づいたのですが肌がボロボロ
足の皮膚なんて甲羅のようにひび割れ、老人性乾皮症のよう

数日遅れたらやばかったかも知れません
(後で先生から自分のような全身感染例では致死率は40~50%
やばかったようです)

転床後、点滴も無くなりリハビリがてら部屋の中をうろうろ
動物園の熊のような状態で一日を過ごします

検温は一日3回、やっと微熱の範囲になってきました
CT等の診察も特にはなく、日に二度お医者さんがやってくるような感じです
検診に来るのは感染症の担当の先生と内科の担当の先生

ある日内科の先生からお願いを受けました
「医学生に腹部の触診をさせてくれない?」
とのリクエスト

なんでも腸管感染症の臓器感染で外部から触ってはっきりと臓器が腫れがわかるケースは珍しいそうです
どうぞとお話したら5人もの学生がやってきて触られてしまいました
学生への説明はフランス語ですからわかりませんでした

まあこちらとしても勉強になりましたね
後で聞いた先生の話ではフランスの医学教育では自分の手でできることを重要視しているとのこと
なるほどなあと思いました
フランスに転院してきたときも内科のこの先生はものすごくお腹の状態を触って診ていましたから
手の感覚と機械の情報の両方を使えることが大事なんですね

感染症病棟に移ってしばらく
食事に違和感があるんです
一番最初は気づかなかったんですが食事に肉がない魚もない
そういう支持がお医者さんから出ているのかしら?と思ったのですが集中治療室ではレアレアのローストビーフや骨付きチキンなんて食べてましたし・・・

その日の昼食時に思い切って配膳の人に聞くと
「日本人ってブッディストでしょう?」
はい仏教徒です
「だったらベジタリアンでしょう!」
えーーーーという感じ
まああちらの常識から言えばそういう配慮も有りだわな
イスラム教徒に豚なんて出したら暴動になりかねないし

仏教徒でも肉も魚も食べるんですと話したらメニューが出てきました

さすがは食の都パリ
病院でもメニューが有るんです
(昼食と夕食 朝ごはんはベタにクロワッサンとカフェオレです)

しかもすごいいっぱい種類が有ります
数回はメニューから選んだのですが入院後半は今日のメニューに
結構いろいろな料理が出てきて面白かったです
アフリカ料理っぽい煮込み料理にクスクス添え
これがフランス料理にあるまじき辛い料理で美味しかったです

まあ何もすることはないので体が回復し始めてからはご飯が何よりの楽しみでした


感染症病棟に移って2日目、両親がやって来ました
いや、もう、バツが悪いやら、申し訳ないやら
しこたま絞られました

両親は来るまで手術になるとの話でしたから
事のほか元気な自分にほっとしたそうです

結局、手術はすることなく薬物治療のみでなんとか生還できました
その後、血液検査や便検査、尿検査でも菌や血便の検出は無くなりました

最終的に両親が来仏して1週間ほどで退院を迎えます
主治医の先生の話では「ほぼ再発しない」とのことでしたが感染巣が残っているので無理はしないようにと
CTを見ましたが脾臓に直径5cmぐらいの感染巣の影がありました
結局これが小さくならないとホントはダメなんだろうなとも思いました

まあ日本帰国のOKが出て退院後、両親のホテルに一泊して次の日、離仏することになりました


結局、入院から両親の来仏、自分の帰国にいたるまですべて保険でまかなえました
保険がなかったら本当に死んでいたか恐ろしい借金を抱えていたでしょう
本当に保険は大事です
旅行に出る前に保険をケチらなくて本当に良かった
そう思います





次の記事は、帰国そしてまさかの再入院編




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仏教徒は→ ベジタリアン→ にあらず→

イスラムを旅して 入院編22010年08月24日 09時05分22秒

入院記の続きです

解熱剤に抗生物質の投与、点滴の大量投与を始めて3日
熱は下がらず脾臓と胆嚢の状況も悪い

結局、感染巣となっている脾臓と胆嚢の除去手術の方向に

明後日には手術ということになり、執刀医から手術法の説明や術後の後遺症なんかの話まで進んできました
ここで急展開
保険会社から連絡が入ってフランスに転院という話が浮上してきました


既に手術日程等が決まっていたことや、主治医のお医者さんとの信頼関係が築けていたため、最初は転院を断りかけたのですが結局転院することに
現在の病院ではテレメーターを備えた集中治療室がなかったというのが決めた理由です

転院とはいっても今度は国外です
トルコからフランスへ通常旅客機だと疲れるだろうなと思っていたらなんとチャーター機とのこと

ビジネスジェットを借りてお医者さんと看護師が同伴での移送となりました

救急車で空港まで移送され、担架に乗せられてそのまま飛行機に
通関もビザを職員の人に機内で渡すだけ
10分ほどで出国手続きは終わり出発します

フランスについたのは2時間ほど後
ここでも入国手続きはビザを渡すのみ
本人は担架に乗ったまま今度は救急車で待ってました

ここでも10分ほどで終了
パリ市内の病院へと向かいます

向かったのはビシャ病院市内で2番目に大きな病院との事
ここの集中治療室に入りました

イスタンブールのマルマラ病院を出発したのが午前3時
ビシャ病院についてのが午前6時半ごろ
とんでもない時間の移送です
まあ飛行機の時間の問題なんだろうと思いますが

入った集中治療室はナースセンター(というかテーブル)のまん前

入院して早々に夜勤のナースとの交代がありました
びっくりしたのは交代のナースがセンターに入ってくるときに陽気に踊りながらだったこと
お国柄というかなんと言うか、恰幅のいいアフリカ系と思われるナースの一群が皆踊りながら集中治療室のセンターに入ってくるのだからびっくりしました

交代が終わった後、こっちに来た看護師さんが患者着を代え髪を洗ってくれました
ここでもびっくりしたのですが洗髪した髪をドレッド風に編まれてしまいました
黒髪のストレートは珍しいから遊ばせてという感じ

今にして思えばこれは単なる看護師さんの遊びじゃなかったんじゃないかなともおもいます
メンタル面でのケアの意味もあったのかな?
少なくとも自分の不安が薄らいだのは間違いないです


その後、レントゲン検査やCTなどいくつかの検査を受けました
そのうちの一つがエイズ検査
これにはまた別の顛末があったりします(もちろん結果は陰性)

検査の結果、手術はしばらく様子見との事
心臓の周りに水が溜まっているため手術すると負担が大きすぎるとの判断です

結局、集中治療室で点滴を受けながら抗生剤や解熱剤の投与となります
一つトルコと異なるのはテレメーターを着けられたこと
脈拍、心電図、体温とうのデータが送られていたようです

ご飯は通常食が出てきました
えっ?と思ったのですが
レアレアのロースとビーフにスープや野菜、パン
なんと皮付きの果物(ネクタリン?)までついていました

日本の病院食とは大きくかけ離れていてここでもびっくり
まさかローストビーフが腸管感染症に出るとは思いもしませんでした
しかも皮付きの果物までついてるし
(日本の病院ではないでしょうね)

ここまで碌に食べれなかったのですがあまりに美味しそうで
7割ぐらい食べちゃいました
自分の食い意地はすごいです

結局食事を取り始めてからめきめきと回復
6月22日に転院して25日には集中治療室を出て感染症病棟の一般病棟に転床することが出来ました
食べることは大事ですね

非常に興味を覚えたのはリハビリに対する考え方
集中治療室に入った2日目、この日からリハビリを始めることに

一番最初に指示されたのはベッドの背もたれを出来るだけあげること
健康な人ならば「なんだそれ」と思われるでしょう
でも病気でヘロヘロな自分には数時間でも結構きつかった
まあそれぐらい体力が落ちているわけです

3日目には屈強な2人の看護師(男性)がやってきて歩行訓練
今やっとかないと歩けなくなるからと言われて集中治療室のフロアをグルグル
英語が上手なので聞いたらフランス人ではないとの事
グルジアだったか(うろ覚え)フランスの外人部隊に1年半所属して市民権と看護師資格を取ったそうです

どうりで屈強なわけだと納得したのを覚えています
ちなみに、フランス・パリ・外人部隊ときたらエリア88ですよね
(世代がばれますな)

余計なことは置いといて、この集中治療室でおこなったリハビリは非常に理にかなっています
昔の日本では余りありませんでしたが、現在リハビリを出来うる限り早くスタートするのは常識ともなっています

結局、トルコでの治療のせいか、フランスのローストビーフのせいか6月22日の転院から4日目には一般病棟に移れることに

まあそこでもちょっとしたトラブルというか誤解から生じた不幸なはなしがあったりします




まあその辺は次の記事、まさかの誤解編で




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ネクタリンは→ 全部→ 食べました→