イスラムを旅して 入院編1 ― 2010年08月23日 09時26分49秒
やっとの思いでトルコまでたどり着きました
アタチュルク国際空港に降りたわけですがここからが結構大変でした
まずプリペイドカードを購入して日本の保険会社に電話
海外旅行者保険は東京海上で入っていましてそこに電話したわけです
一刻も早く病院へと言う感じで電話をするのですがそうは行きません
折り返し電話するという担当者に
「今空港で折り返しを受けれないからこちらから電話する」
といい、一時間後の電話を約束
空港内でベンチに倒れこむように時間を待ち、一時間後に電話
やっとアメリカン病院へいける手はずを整えタクシーで向かいます
アメリカン病院に着いてからも時間がかかりました
熱を測ったら看護婦はすっ飛んでいくし
救急の治療室でしょうかそこで待たされていました
しばらくしたら白衣の人がやってきます
いきなりこう聞かれました
「君はお金をいくら持っている?」
で正直に
「今の手持ちで1000ドル、口座にも1000ドルぐらい」
と答えたら
「それでは足りない、治療できない」
と言われました
正直びっくりしましたね
あわてて
「旅行者保険に入っている、10万ドルまでなら保険でカバーされる」
いって保険証書と保険会社の連絡先を渡したらやっと治療が始まりました
応急治療後、保険会社と連絡が取れたとの話の後で
「申し訳ないがここでは入院できないので転院してもらう」
とのこと
結局病室に入ることなくマルマラ医科大学の付属病院へ転院となりました
-------------------------------------------------
上記は記憶間違いで実際にはアメリカン病院にも一週間ほど滞在してました
実際には転院理由は内視鏡手術がアメリカン病院ではできないためでした
父と保険会社の記録から訂正いたします
実際は6月8日にアメリカン病院へ入院、6月17日にマルマラ大学病院へ転院
-------------------------------------------------
救急車で移送されやっと病室に入れました
昼飯も出て(ろくに食べれませんが)少し落ち着きました
すぐに採血等の検査が始まり
よっぽど悪かったのか即座に点滴が始まります
用意された輸液が白濁していてびっくりしました
牛乳を点滴するようなかんじです
リンゲル液ぐらいしか知りませんから本当にびっくり
しかも立て続けに3本点滴されます
点滴中に便所に行ったらこれまたびっくり
ものすごい血便でした
すぐに医者に説明して検便も実施
鮮血便ですから、一目でわかる腸管感染症です
中東ってトイレが日本の和式の便所みたいなんです
ポットン便所といえば解りやすいのでしょうか?
あれの便をする部分がかなり細い感じのトイレ
このため便の性状を詳しくは見えなかったんですな
トイレットペーパーも使用していましたが気づきませんでした
ということで日本で言う法定伝染病となってすぐに変わったのが食事
次の飯から使い捨て容器に変わりました
次の日には本格的な検査が始まります
CTやMRIらしき検査を受けたのですがCTが大変でした
ただでさえお腹が脹るかんじで飲み物も取れないのに、多量の造影剤を飲んでの検査です
本当に苦しかった
この入院2日目から胃が脹る感じが酷くなり
医師に吐かせてくれと訴えましたが吐いちゃダメといわれました
胃の中には何もない状態だからと
それでも胃の脹る感じが酷く苦しい
どうにもならず胃の中のものを出してくれとお願いすると
根負けしたお医者さんが経鼻胃チューブ処置で中身を出してくれます
でも胃の内容物なんてほとんどない状態
どんなに頑張ってもコップ半分ほども出ません
お医者さんの言う「入っていない」というのが正確だったわけです
今になって、このとき一連のことを思い出すと恥ずかしくて顔から火が出ます
反省だけではなく、いろんな感情がめぐります
何より我侭な患者に対応していたお医者さんと看護師さんへの感謝の念
そして今、治療家としての自分への戒めともしています
検査の結果、チフスまたはパラチフスの腸管感染症で菌が全身に回り、脾臓、胆嚢で感染巣がある状態と解りました
医師の説明では抗生剤ならびに解熱剤で熱が下がらない状態が続くようならば外科手術で脾臓、胆嚢の除去手術となるとの説明でした
2003年の6月8日頃に入院し、マルマラ大学病院へ転院が17日たのですが20日になっても熱は下がらず
明後日にはいよいよ手術という段になってまた急展開があります
(ここらへんは本人の意識が混濁気味で・・・間違って記載してました)
そこから先は次の記事で
次は手術?編
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今も→
美しい→
村ですか?→
アタチュルク国際空港に降りたわけですがここからが結構大変でした
まずプリペイドカードを購入して日本の保険会社に電話
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一刻も早く病院へと言う感じで電話をするのですがそうは行きません
折り返し電話するという担当者に
「今空港で折り返しを受けれないからこちらから電話する」
といい、一時間後の電話を約束
空港内でベンチに倒れこむように時間を待ち、一時間後に電話
やっとアメリカン病院へいける手はずを整えタクシーで向かいます
アメリカン病院に着いてからも時間がかかりました
熱を測ったら看護婦はすっ飛んでいくし
救急の治療室でしょうかそこで待たされていました
しばらくしたら白衣の人がやってきます
いきなりこう聞かれました
「君はお金をいくら持っている?」
で正直に
「今の手持ちで1000ドル、口座にも1000ドルぐらい」
と答えたら
「それでは足りない、治療できない」
と言われました
正直びっくりしましたね
あわてて
「旅行者保険に入っている、10万ドルまでなら保険でカバーされる」
いって保険証書と保険会社の連絡先を渡したらやっと治療が始まりました
応急治療後、保険会社と連絡が取れたとの話の後で
「申し訳ないがここでは入院できないので転院してもらう」
とのこと
結局病室に入ることなくマルマラ医科大学の付属病院へ転院となりました
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上記は記憶間違いで実際にはアメリカン病院にも一週間ほど滞在してました
実際には転院理由は内視鏡手術がアメリカン病院ではできないためでした
父と保険会社の記録から訂正いたします
実際は6月8日にアメリカン病院へ入院、6月17日にマルマラ大学病院へ転院
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救急車で移送されやっと病室に入れました
昼飯も出て(ろくに食べれませんが)少し落ち着きました
すぐに採血等の検査が始まり
よっぽど悪かったのか即座に点滴が始まります
用意された輸液が白濁していてびっくりしました
牛乳を点滴するようなかんじです
リンゲル液ぐらいしか知りませんから本当にびっくり
しかも立て続けに3本点滴されます
点滴中に便所に行ったらこれまたびっくり
ものすごい血便でした
すぐに医者に説明して検便も実施
鮮血便ですから、一目でわかる腸管感染症です
中東ってトイレが日本の和式の便所みたいなんです
ポットン便所といえば解りやすいのでしょうか?
あれの便をする部分がかなり細い感じのトイレ
このため便の性状を詳しくは見えなかったんですな
トイレットペーパーも使用していましたが気づきませんでした
ということで日本で言う法定伝染病となってすぐに変わったのが食事
次の飯から使い捨て容器に変わりました
次の日には本格的な検査が始まります
CTやMRIらしき検査を受けたのですがCTが大変でした
ただでさえお腹が脹るかんじで飲み物も取れないのに、多量の造影剤を飲んでの検査です
本当に苦しかった
この入院2日目から胃が脹る感じが酷くなり
医師に吐かせてくれと訴えましたが吐いちゃダメといわれました
胃の中には何もない状態だからと
それでも胃の脹る感じが酷く苦しい
どうにもならず胃の中のものを出してくれとお願いすると
根負けしたお医者さんが経鼻胃チューブ処置で中身を出してくれます
でも胃の内容物なんてほとんどない状態
どんなに頑張ってもコップ半分ほども出ません
お医者さんの言う「入っていない」というのが正確だったわけです
今になって、このとき一連のことを思い出すと恥ずかしくて顔から火が出ます
反省だけではなく、いろんな感情がめぐります
何より我侭な患者に対応していたお医者さんと看護師さんへの感謝の念
そして今、治療家としての自分への戒めともしています
検査の結果、チフスまたはパラチフスの腸管感染症で菌が全身に回り、脾臓、胆嚢で感染巣がある状態と解りました
医師の説明では抗生剤ならびに解熱剤で熱が下がらない状態が続くようならば外科手術で脾臓、胆嚢の除去手術となるとの説明でした
2003年の6月8日頃に入院し、マルマラ大学病院へ転院が17日たのですが20日になっても熱は下がらず
明後日にはいよいよ手術という段になってまた急展開があります
(ここらへんは本人の意識が混濁気味で・・・間違って記載してました)
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自然療法と乳児死亡事件 代替医療について ― 2010年08月21日 15時06分16秒
今日の記事は治療院の記事として書いたものです
まだ完全版ではありませんがこちらにも同じ記事を掲載します
黒砂台鍼灸あん摩治療院の当該記事ページ
治療院のページには追記機能を使用してさらに追加のお話も
まだ完全版ではありませんがこちらにも同じ記事を掲載します
黒砂台鍼灸あん摩治療院の当該記事ページ
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livedoor「BLOGOS」で見つけた記事に非常に興味深くかつ鍼・灸・あん摩という代替医療にかかわる人間として考えさせられる記事がありました
これについてずっと考えていたので少しだけ
この記事で言いたいことはホメオパシー療法の糾弾では有りません
代替医療に関わる人間として思うところを素直に述べていきます
詳しくは上記BLOGOS記事で読んでいただきたいのです
発端となった読売新聞の記事、わかりやすいホメオパシーの説明を行っている毎日新聞の記事、そして日本でホメオパシー療法を薦める日本ホメオパシー医学協会に詳細に取材を行った朝日新聞の記事と縦横無尽にリンク引用を行いすばらしい記事になっています
発端となった7月9日付けの読売新聞の記事
「ビタミンK与えず、自然療法の錠剤」乳児死亡で助産師を提訴…山口
この新聞記事には書かれていませんが助産師がビタミンKのかわりにレメディーと呼ばれるホメオパシー療法で用いられる錠剤との事です
この後、朝日新聞ならびに同新聞のネット記事等でで詳細な取材による追記がなされています
「問われる真偽 ホメオパシー療法」
↑上記に序文を引用した朝日新聞apital掲載の記事へのリンクです
「apital ホメオパシー特集」
↑以降もかなり詳細な記事の掲載が続いています
これら朝日新聞の記事に対しては取材元である日本ホメオパシー医学協会からコメントが出されています
「日本ホメオパシー医学協会のコメント」
・
・
・
・
非常に残念な事件ですが、これは断じてホメオパシーのみに限った問題というわけではありません
自分も含めての話ですが代替医療に関わる者にとってもっとも怖いのは行き過ぎた自己肯定と他者否定だとおもうんです
誰しも自分が行っていることは正しいと思いたいものです
自分にしてもそうです
鍼も灸もあん摩も大好きです
すごく良いものだと思っています
だからこそ気をつけたいとも考えています
自己を肯定し他者を否定することは簡単です
治療と言う領域ならばもっと簡単です
自分が神であるかのように患者にふるまえばいいのですから
そうなってはならない、そうならない為にも我々代替医療に関わるものは学ばなければならないと思っています
自分で言えば鍼・灸・あん摩を
そして何より現代医学について学んでいかなければならないのだと思います
そして患者さんを前にしたら絶えず考えるんです
この患者さんに鍼・灸・あん摩の治療をしていいのか?
お医者さんに行って貰うべきではないのか?
その判断をした上で確信を持って治療するべきなんです
代替医療に関わる人間は誰よりも現代医学の知識に貪欲でなければならないと自分は考えています
他者を不幸にする“はだかのおうさま”にならないためにもです
・
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・
・
これについてずっと考えていたので少しだけ
この記事で言いたいことはホメオパシー療法の糾弾では有りません
代替医療に関わる人間として思うところを素直に述べていきます
詳しくは上記BLOGOS記事で読んでいただきたいのです
発端となった読売新聞の記事、わかりやすいホメオパシーの説明を行っている毎日新聞の記事、そして日本でホメオパシー療法を薦める日本ホメオパシー医学協会に詳細に取材を行った朝日新聞の記事と縦横無尽にリンク引用を行いすばらしい記事になっています
発端となった7月9日付けの読売新聞の記事
「ビタミンK与えず、自然療法の錠剤」乳児死亡で助産師を提訴…山口
山口市の助産師(43)が、出産を担当した同市の女児に、厚生労働省が指針で与えるよう促しているビタミンKを与えず、代わりに「自然治癒力を促す」という錠剤を与え、この女児は生後2か月で死亡していたことが分かった。
助産師は自然療法の普及に取り組む団体に所属しており、錠剤はこの団体が推奨するものだった。母親(33)は助産師を相手取り、約5640万円の損害賠償訴訟を山口地裁に起こした。
母親らによると、女児は昨年8月3日に自宅で生まれ、母乳のみで育てたが、生後約1か月頃に嘔吐(おうと)し、山口県宇部市の病院でビタミンK欠乏性出血症と診断され、10月16日に呼吸不全で死亡した。
新生児や乳児は血液凝固を補助するビタミンKを十分生成できないことがあるため、厚労省は出生直後と生後1週間、同1か月の計3回、ビタミンKを経口投与するよう指針で促し、特に母乳で育てる場合は発症の危険が高いため投与は必須としている。
しかし、母親によると、助産師は最初の2回、ビタミンKを投与せずに錠剤を与え、母親にこれを伝えていなかった。3回目の時に「ビタミンKの代わりに(錠剤を)飲ませる」と説明したという。
助産師が所属する団体は「自らの力で治癒に導く自然療法」をうたい、錠剤について「植物や鉱物などを希釈した液体を小さな砂糖の玉にしみこませたもの。適合すれば自然治癒力が揺り動かされ、体が良い方向へと向かう」と説明している。日本助産師会(東京)によると、助産師はビタミンKを投与しなかったことを認めているという。助産師は読売新聞の取材に対し、「今回のことは何も話せない。今は助産師の活動を自粛している」としている。
ビタミンK欠乏性出血症 血液凝固因子をつくるビタミンKが不足して頭蓋(ずがい)内や消化管に出血を起こす病気。母乳はビタミンKの含有量が少ない場合がある。
2010年7月9日読売新聞より
助産師は自然療法の普及に取り組む団体に所属しており、錠剤はこの団体が推奨するものだった。母親(33)は助産師を相手取り、約5640万円の損害賠償訴訟を山口地裁に起こした。
母親らによると、女児は昨年8月3日に自宅で生まれ、母乳のみで育てたが、生後約1か月頃に嘔吐(おうと)し、山口県宇部市の病院でビタミンK欠乏性出血症と診断され、10月16日に呼吸不全で死亡した。
新生児や乳児は血液凝固を補助するビタミンKを十分生成できないことがあるため、厚労省は出生直後と生後1週間、同1か月の計3回、ビタミンKを経口投与するよう指針で促し、特に母乳で育てる場合は発症の危険が高いため投与は必須としている。
しかし、母親によると、助産師は最初の2回、ビタミンKを投与せずに錠剤を与え、母親にこれを伝えていなかった。3回目の時に「ビタミンKの代わりに(錠剤を)飲ませる」と説明したという。
助産師が所属する団体は「自らの力で治癒に導く自然療法」をうたい、錠剤について「植物や鉱物などを希釈した液体を小さな砂糖の玉にしみこませたもの。適合すれば自然治癒力が揺り動かされ、体が良い方向へと向かう」と説明している。日本助産師会(東京)によると、助産師はビタミンKを投与しなかったことを認めているという。助産師は読売新聞の取材に対し、「今回のことは何も話せない。今は助産師の活動を自粛している」としている。
ビタミンK欠乏性出血症 血液凝固因子をつくるビタミンKが不足して頭蓋(ずがい)内や消化管に出血を起こす病気。母乳はビタミンKの含有量が少ない場合がある。
2010年7月9日読売新聞より
この新聞記事には書かれていませんが助産師がビタミンKのかわりにレメディーと呼ばれるホメオパシー療法で用いられる錠剤との事です
この後、朝日新聞ならびに同新聞のネット記事等でで詳細な取材による追記がなされています
問われる真偽 ホメオパシー療法
気が遠くなるほど薄めた「毒」を飲むことで病気を治す、という欧州生まれの代替医療ホメオパシーが「害のない自然な療法」と日本でも女性層を中心に人気が高まりつつある。だが、この療法が公的医療の一角を占める英国は今年、議会委員会がその効果を全面否定、公的医療から外すよう政府に勧告した。日本でも裁判が起こされるなど、その効果を巡ってホメオパシーは批判対象にもなってきている。(長野剛)
2010年7月31日朝日新聞東京本社朝刊beより抜粋
「問われる真偽 ホメオパシー療法」
↑上記に序文を引用した朝日新聞apital掲載の記事へのリンクです
「apital ホメオパシー特集」
↑以降もかなり詳細な記事の掲載が続いています
これら朝日新聞の記事に対しては取材元である日本ホメオパシー医学協会からコメントが出されています
「日本ホメオパシー医学協会のコメント」
・
・
・
・
非常に残念な事件ですが、これは断じてホメオパシーのみに限った問題というわけではありません
自分も含めての話ですが代替医療に関わる者にとってもっとも怖いのは行き過ぎた自己肯定と他者否定だとおもうんです
誰しも自分が行っていることは正しいと思いたいものです
自分にしてもそうです
鍼も灸もあん摩も大好きです
すごく良いものだと思っています
だからこそ気をつけたいとも考えています
自己を肯定し他者を否定することは簡単です
治療と言う領域ならばもっと簡単です
自分が神であるかのように患者にふるまえばいいのですから
そうなってはならない、そうならない為にも我々代替医療に関わるものは学ばなければならないと思っています
自分で言えば鍼・灸・あん摩を
そして何より現代医学について学んでいかなければならないのだと思います
そして患者さんを前にしたら絶えず考えるんです
この患者さんに鍼・灸・あん摩の治療をしていいのか?
お医者さんに行って貰うべきではないのか?
その判断をした上で確信を持って治療するべきなんです
代替医療に関わる人間は誰よりも現代医学の知識に貪欲でなければならないと自分は考えています
他者を不幸にする“はだかのおうさま”にならないためにもです
・
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アフガニスタン脱出へ向け2 ― 2010年08月20日 09時10分23秒
さてアフガン脱出の第一歩は空路です
「ナンデ一足飛びに空路で海外まで行かないの?」
と言う疑問もあるでしょう
当時のアフガニスタンは復興途上
国内線ですらやっとの思いでチケットを入手しても
「ひょっとしたら飛ばないからね」
なんて言われるような状態
事実、前日のフライトはキャンセルされていました
航空燃料や整備など様々な問題が山積している状態です
国際線はマトモに動いていません
現在のアリアナ-アフガン航空の運行ですら以下のような状態
カブール→アンカラ(トルコ首都) 週1便
カブール→イスタンブール(トルコ) 週2便
国際線を待つよりイランまで脱出してイランからトルコに飛ぶ方を選択
祈るような感じで空港に向かったら飛行機は駐機中

見た瞬間に愕然
これソビエトのツポレフじゃないのかしらと
墜ちそうな予感が満載です
びっくりしたのは飛行機後部のタラップ(軍用機かよ)から乗り込むこと
席について隣のアフガンビジネスマンに聞いたらボーイングだよと
「ソビエトの飛行機じゃ不安で僕も乗りたくないよ」
とおっしゃっていました
帰国後調べたらボーイングの727
機体の高さが低く空港に特別な機材が必要ないことやことや、」飛行機自体が後部にタラップを持っているなどの運用のしやすさからいまだに途上国を中心に飛んでいる機体でした
よほど具合が悪く見えたのか隣のビジネスマンが宿まで車で送迎
宿についたら下痢と発熱でダウン
便の性状からみてもかなりヤバメの感染症
2日ほどダウンして少しでも体力を回復します
体調が少し回復したので国際バスのチケットを買いに町へ
途中、水分と栄養補給のためジュースを買いにいった店でこんな風景が

北部同盟の将軍マスードの肖像です
ちょっと解らないかもしれませんが写真でも絵でもなく織物です
ものすごく精巧に織られたもの
タリバーンからアフガニスタンを開放した勢力の一つが北部同盟
米国多発テロの2日前、アルカイーダの自爆テロにより暗殺されました
「国を解放したら、国民が信頼できる政治家に後は任せて、大学で建築学を勉強しなおしたい」
ソビエト侵攻に抗戦していたころの言葉ですが人柄がしのばれます
ソ連軍撤退に際しては、その撤退を妨害しないことを約束し、ソビエト軍捕虜の解放も
それが結果的にタリバーンに抗戦する北部同盟へのロシアの支援へつながったとも言われています
旅をしているときはそんな情報は知らなかったのですがあちこちでマスード将軍の肖像を目にしました
これ以降は本当に体調が悪く写真は一切無し
なんで文章での紹介となります
結局次の日のチケットを何とか得てイランに向かいます
ヘラートからマシュハドへ
約10時間のバスの旅
本当に死にそうです
トイレ問題もなんとか振り切ってマシュハドにたどり着きました
熱のためか、ほとんど記憶があいまいになっています
マシュハドでもダウン
1日ぶっ倒れて航空会社を探索
持っていた情報に空路関連のものはなかったはず
ただ空港はあるのでイラン航空のオフィスに行ってチケットを入手
マシュハド(イラン)→テヘラン(イラン) 国内線
テヘラン(イラン)→イスタンブール(トルコ) 国際線
と言うチケットを入手できました
いくらだったかは不明・・・本当に記憶にありません
下手すりゃ「カネの切れ目は命の切れ目」かも
這うようにして空港へ向かい搭乗
テヘラン空港でトランジットの5時間をベンチでぶっ倒れながらすごしました
何とかイスタンブールについて速攻で保険会社に電話
お役所的な電話担当とすったもんだをしたうえで病院に駆け込みます
まあ、病院でももうひと波乱もふた波乱もあったりするわけですが
次は病院編
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「ナンデ一足飛びに空路で海外まで行かないの?」
と言う疑問もあるでしょう
当時のアフガニスタンは復興途上
国内線ですらやっとの思いでチケットを入手しても
「ひょっとしたら飛ばないからね」
なんて言われるような状態
事実、前日のフライトはキャンセルされていました
航空燃料や整備など様々な問題が山積している状態です
国際線はマトモに動いていません
現在のアリアナ-アフガン航空の運行ですら以下のような状態
カブール→アンカラ(トルコ首都) 週1便
カブール→イスタンブール(トルコ) 週2便
国際線を待つよりイランまで脱出してイランからトルコに飛ぶ方を選択
祈るような感じで空港に向かったら飛行機は駐機中

見た瞬間に愕然
これソビエトのツポレフじゃないのかしらと
墜ちそうな予感が満載です
びっくりしたのは飛行機後部のタラップ(軍用機かよ)から乗り込むこと
席について隣のアフガンビジネスマンに聞いたらボーイングだよと
「ソビエトの飛行機じゃ不安で僕も乗りたくないよ」
とおっしゃっていました
帰国後調べたらボーイングの727
機体の高さが低く空港に特別な機材が必要ないことやことや、」飛行機自体が後部にタラップを持っているなどの運用のしやすさからいまだに途上国を中心に飛んでいる機体でした
よほど具合が悪く見えたのか隣のビジネスマンが宿まで車で送迎
宿についたら下痢と発熱でダウン
便の性状からみてもかなりヤバメの感染症
2日ほどダウンして少しでも体力を回復します
体調が少し回復したので国際バスのチケットを買いに町へ
途中、水分と栄養補給のためジュースを買いにいった店でこんな風景が

北部同盟の将軍マスードの肖像です
ちょっと解らないかもしれませんが写真でも絵でもなく織物です
ものすごく精巧に織られたもの
タリバーンからアフガニスタンを開放した勢力の一つが北部同盟
米国多発テロの2日前、アルカイーダの自爆テロにより暗殺されました
「国を解放したら、国民が信頼できる政治家に後は任せて、大学で建築学を勉強しなおしたい」
ソビエト侵攻に抗戦していたころの言葉ですが人柄がしのばれます
ソ連軍撤退に際しては、その撤退を妨害しないことを約束し、ソビエト軍捕虜の解放も
それが結果的にタリバーンに抗戦する北部同盟へのロシアの支援へつながったとも言われています
旅をしているときはそんな情報は知らなかったのですがあちこちでマスード将軍の肖像を目にしました
これ以降は本当に体調が悪く写真は一切無し
なんで文章での紹介となります
結局次の日のチケットを何とか得てイランに向かいます
ヘラートからマシュハドへ
約10時間のバスの旅
本当に死にそうです
トイレ問題もなんとか振り切ってマシュハドにたどり着きました
熱のためか、ほとんど記憶があいまいになっています
マシュハドでもダウン
1日ぶっ倒れて航空会社を探索
持っていた情報に空路関連のものはなかったはず
ただ空港はあるのでイラン航空のオフィスに行ってチケットを入手
マシュハド(イラン)→テヘラン(イラン) 国内線
テヘラン(イラン)→イスタンブール(トルコ) 国際線
と言うチケットを入手できました
いくらだったかは不明・・・本当に記憶にありません
下手すりゃ「カネの切れ目は命の切れ目」かも
這うようにして空港へ向かい搭乗
テヘラン空港でトランジットの5時間をベンチでぶっ倒れながらすごしました
何とかイスタンブールについて速攻で保険会社に電話
お役所的な電話担当とすったもんだをしたうえで病院に駆け込みます
まあ、病院でももうひと波乱もふた波乱もあったりするわけですが
次は病院編
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アフガニスタン 脱出へ向け1 ― 2010年08月19日 16時12分50秒
バーミヤンの大仏痕を見た晩に病状はどうにもならない状態
熱はあるわ、解熱剤もダメだわ、抗生物質は効かないわ、下痢も始まり
夜中に便所に出たら空には満天の星
この世のものとは思えないような星空が広がっています
ランプを消すと村の中のはずなのに何も見えません
あまりの美しさに「ああ、下手すりゃ死ぬかも」と思うほど
一般的な抗生剤や解熱剤が効かないということはかなりヤバイ疾患
このまま体力を消耗していたら動くことすら出来なくなりそうです
病院へ向かう覚悟を決めてアフガン脱出を決意しました
アフガンで病院にかからなかった理由は薬品や検査機材の不足を懸念して
既に手持ちの薬ではらちがあかないのですから
当時アフガン出国のルートはいくつかありました
現実的なルートはパキスタン方面かイラン方面
おそらく入院する羽目になるだろうから出来れば先進国方面へ
トルコのアメリカン病院かドイツ病院へ向かうのが良かろう
ルートは
バーミヤン→
カブール(アフガン)→
ヘラート(アフガン)→
マシュハド(イラン)→
テヘラン(イラン)→
イスタンブール(トルコ)→
病院
覚悟を決めました
次の日にカブールへと戻ります

これはカブールへ向かう途中
これはソビエト侵攻時のものでしょうか?
カブールについて宿に着いたらルートの再確認とチケットの手配です
既に体力的にやばかったのでバーミヤンからのルートはあきらめました
バーミヤンから国境へ向かうには車で2日~3日
まだ情報のないルートも通らねばなりません
そこで逆方向ですがいったんカブールに戻り空路を選択
でもすぐに空港に行っても飛行機には乗れません
日本のように快適なチケットサービスには程遠いです
チケットの発売事務所に行ってチケット争奪戦に勝たねばなりません
陸路はやはり危険が多いため飛行機のチケットは大人気
とるのも結構大変そうです
航空事務所のおっちゃんらの機嫌を取りつつ何とか明日のチケットを確保
最初売り切れとの話
食い下がって死にそうなので一旦入院しに帰ると行ったら売ってくれました
帰り道、食わなきゃさらに体力を消耗するからと思い店へ
ケバブ等、ニクニクしい物は既に食べれません
何とか口に出来そうで生ものでなくお腹にも軽いものを・・・

選んだのはこれ
アフガン風の餃子です
焼き餃子ではなく蒸し餃子
これなら何とかなりそうです

トマトソースをかけて出てきます

蒸した羊肉の餃子にトマトソースとヨーグルトソース
味は覚えていません
美味しかったんだと思うんです
それまで固形物はほぼ2日食べれなかったのに食べれましたから
でも結局三分の二ほどでギブアップ
親父さんには申し訳ないことをしました
でもおかげで少し体力と言うか精神力は回復
明日の飛行機に向けて寝ます

これはアフガニスタン航空(アリアナ-アフガン航空)の事務所にて
このおっちゃんらが何とかチケットを確保してくれました
本当は3日後のしかなかったんですが
ありがたいです
本当に助かりました
次はアフガン脱出?
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美しい→
村ですか?→
熱はあるわ、解熱剤もダメだわ、抗生物質は効かないわ、下痢も始まり
夜中に便所に出たら空には満天の星
この世のものとは思えないような星空が広がっています
ランプを消すと村の中のはずなのに何も見えません
あまりの美しさに「ああ、下手すりゃ死ぬかも」と思うほど
一般的な抗生剤や解熱剤が効かないということはかなりヤバイ疾患
このまま体力を消耗していたら動くことすら出来なくなりそうです
病院へ向かう覚悟を決めてアフガン脱出を決意しました
アフガンで病院にかからなかった理由は薬品や検査機材の不足を懸念して
既に手持ちの薬ではらちがあかないのですから
当時アフガン出国のルートはいくつかありました
現実的なルートはパキスタン方面かイラン方面
おそらく入院する羽目になるだろうから出来れば先進国方面へ
トルコのアメリカン病院かドイツ病院へ向かうのが良かろう
ルートは
バーミヤン→
カブール(アフガン)→
ヘラート(アフガン)→
マシュハド(イラン)→
テヘラン(イラン)→
イスタンブール(トルコ)→
病院
覚悟を決めました
次の日にカブールへと戻ります

これはカブールへ向かう途中
これはソビエト侵攻時のものでしょうか?
カブールについて宿に着いたらルートの再確認とチケットの手配です
既に体力的にやばかったのでバーミヤンからのルートはあきらめました
バーミヤンから国境へ向かうには車で2日~3日
まだ情報のないルートも通らねばなりません
そこで逆方向ですがいったんカブールに戻り空路を選択
でもすぐに空港に行っても飛行機には乗れません
日本のように快適なチケットサービスには程遠いです
チケットの発売事務所に行ってチケット争奪戦に勝たねばなりません
陸路はやはり危険が多いため飛行機のチケットは大人気
とるのも結構大変そうです
航空事務所のおっちゃんらの機嫌を取りつつ何とか明日のチケットを確保
最初売り切れとの話
食い下がって死にそうなので一旦入院しに帰ると行ったら売ってくれました
帰り道、食わなきゃさらに体力を消耗するからと思い店へ
ケバブ等、ニクニクしい物は既に食べれません
何とか口に出来そうで生ものでなくお腹にも軽いものを・・・

選んだのはこれ
アフガン風の餃子です
焼き餃子ではなく蒸し餃子
これなら何とかなりそうです

トマトソースをかけて出てきます

蒸した羊肉の餃子にトマトソースとヨーグルトソース
味は覚えていません
美味しかったんだと思うんです
それまで固形物はほぼ2日食べれなかったのに食べれましたから
でも結局三分の二ほどでギブアップ
親父さんには申し訳ないことをしました
でもおかげで少し体力と言うか精神力は回復
明日の飛行機に向けて寝ます

これはアフガニスタン航空(アリアナ-アフガン航空)の事務所にて
このおっちゃんらが何とかチケットを確保してくれました
本当は3日後のしかなかったんですが
ありがたいです
本当に助かりました
次はアフガン脱出?
是非ランキングにご協力ください
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今も→



お盆につらつら2 ― 2010年08月18日 15時23分34秒
お盆につらつら
祖母達の話
父方の祖母は子供時分もっとも甘えた存在です
下の弟妹が生まれる際に父の陰謀で自分は田舎に拉致られたため
(父の陰謀とは母の話、相談無しだったとか)
ほとんど覚えていないのですが、肥溜めに落ちたり、木から落ちたり
いろいろヤンチャをしたそうです
ちなみに自分が人並み外れて大きいのは、肥溜めに落ちたためだそうです
(よく死ななかったな、自分)
覚えているのはいつも手ぬぐいをかぶって背中を丸めてたこと
祖母の後姿を見ながら遊んでいたのでしょうね
夏休みはほぼ1月祖母のいる(祖父もいる)田舎で過ごしていました
岡山県の加茂川町
地図で見ると本当に岡山のど真ん中
すごい田舎で山ん中
自然以外は何も無い、胸を張って言える田舎です
カブトムシやカミキリムシ、クワガタなど捕まえたり
イノシシを飼っているところがあって見に行ったり
「マムシには気をつけろよ」
が遊びに行くときにかけられる声だったような
帰ってきたら岡山名産の桃
地元で食べるのは出荷できないくらいに熟れ過ぎたヤツ
でもこれが一番美味しい
すばらしい香りと瑞々しい果汁
ふと食べたくなって大金払って入手しても満足したことはありません
千疋屋でも万惣でもあの味は無いんです
年末を過ごすのも必ずここ
子供向けでしょうか山のように唐揚げやエビフライの入った御節でした
中学時分は家族も倉敷に住んでいました
自転車を手に入れ行動範囲がどんどん広がり、祖母の家にも自転車で行ったり
さっきGoogleMAPで見てみたら距離は39km
山道ですからね
行きは3時間半なのに帰りは1時間ちょっと
よくまあ走れたなあと思います
このころに食べさせてもらったのが「クサギ菜飯」
地域の婦人会でも大活躍の祖母
村おこしの一環でしょうか?地域食のレシピ作りなんかも行っていたようです
今調べてみると「クサギ菜飯」は鳥の出汁をかけた汁かけ飯のようなもの
祖母が作ってくれたのはどんぶり風で汁は無し
うまいうまいとお替りをだいぶしました
歯が菜に食い込むときの独特の歯ごたえがありました
父の転勤で引っ越して千葉に来たときクサギを送ってくれました
乾燥した葉っぱを包装したものだから婦人会で商品化したのでしょうか?
食べたのか食べなかったのか、それすら覚えていません
結局、祖母の味ではなかったんでしょうね
高校生時分に亡くなった父方の祖母
祖父も千葉にやってきて同居することなりました
結局それ以降、20年以上田舎に自分は帰っていません
母方の祖母はピシッとした印象の強い人でした
いつでもきちんとした感じで農作業の多かった父方の祖母とは違う感じ
祖母の手料理は食べた記憶があまりありません
田舎に帰るのは大抵が夏休みや冬休み
同居の叔母を中心に帰省している叔母方がやっていたような気がします
子供達が遊ぶのはいつも祖母の幼稚園跡
もと幼稚園だけあってものすごく大きな板の間で十何人いとこが集まっても狭い感じはしませんでした
小さいころには元幼稚園だと言うことを知らず
「西阿知の家にはウチ(自分の家)が10軒入るね」
と言って大人たちに笑われました
でも本当に大きく立派な家でした
母屋から歯医者の治療室、応接間を経て離れへ向かう感じで
逆に進むと今度は幼稚園
下手にかくれんぼをすると相手を見つけることが出来ません
幼稚園の中だけとかルールを作ってました
幼稚園側の庭には畑とイチジクの木が
離れ側には立派な日本庭園がありました
苔むした庭園になっていて苔を荒らすとお祖父ちゃんに怒られました
庭石も立派なものがあって、子供にとってはちょっとしたステージだったり
上に登ると忍者になれるなんて従兄弟に騙されたり
母方と言うのもあるのでしょうか
あまり長い期間泊まっていなかった気がします
このためか何を食べたかの記憶も曖昧
カレー以外は海産物でしょうかね
倉敷は港にも近い海産物の豊富なところ
祖父が魚介が好きというのもあって新鮮なもんを食べていました
覚えているのは蝦蛄や蟹
生きているのを茹でるわけです
茹で上がり色の変わったのに驚き、美味しさに驚き
特に蝦蛄は大好物でした
勤めていたころ蝦蛄が食べたくて敷居の高い寿司屋に時々行きました
出てくる蝦蛄は美味しいのですが、やっぱり違いますね
自分では覚えていないのですが
幼児期にはタコを良く食べていたそうです
但し、最初はおお泣き
瀬戸内の地ダコの足を一本もらったのは良かったが、吸盤が怖くて持ったままビービー泣いたそうです
祖母が皮と吸盤の部分を削いで真っ白の身だけにしてくれました
ちゅーちゅーと吸うように食べ以降はお気に入りだったそうです
よっぽど面白かったのか帰省するたびに周りから聞かされそれこそ耳タコ
母方の祖父祖母の家はずいぶん前になくなってしまいました
バイパスを通すためだったそうです
それ以来ほとんど行ってないですね
葬儀、法要などの形式は大嫌いです
理由をつけてろくに出なかったり
でも、お盆の灯明と迎え火の煙のにおいは好きです
お盆には故人が帰ってくるという考え方も
祖母達の話
父方の祖母は子供時分もっとも甘えた存在です
下の弟妹が生まれる際に父の陰謀で自分は田舎に拉致られたため
(父の陰謀とは母の話、相談無しだったとか)
ほとんど覚えていないのですが、肥溜めに落ちたり、木から落ちたり
いろいろヤンチャをしたそうです
ちなみに自分が人並み外れて大きいのは、肥溜めに落ちたためだそうです
(よく死ななかったな、自分)
覚えているのはいつも手ぬぐいをかぶって背中を丸めてたこと
祖母の後姿を見ながら遊んでいたのでしょうね
夏休みはほぼ1月祖母のいる(祖父もいる)田舎で過ごしていました
岡山県の加茂川町
地図で見ると本当に岡山のど真ん中
すごい田舎で山ん中
自然以外は何も無い、胸を張って言える田舎です
カブトムシやカミキリムシ、クワガタなど捕まえたり
イノシシを飼っているところがあって見に行ったり
「マムシには気をつけろよ」
が遊びに行くときにかけられる声だったような
帰ってきたら岡山名産の桃
地元で食べるのは出荷できないくらいに熟れ過ぎたヤツ
でもこれが一番美味しい
すばらしい香りと瑞々しい果汁
ふと食べたくなって大金払って入手しても満足したことはありません
千疋屋でも万惣でもあの味は無いんです
年末を過ごすのも必ずここ
子供向けでしょうか山のように唐揚げやエビフライの入った御節でした
中学時分は家族も倉敷に住んでいました
自転車を手に入れ行動範囲がどんどん広がり、祖母の家にも自転車で行ったり
さっきGoogleMAPで見てみたら距離は39km
山道ですからね
行きは3時間半なのに帰りは1時間ちょっと
よくまあ走れたなあと思います
このころに食べさせてもらったのが「クサギ菜飯」
地域の婦人会でも大活躍の祖母
村おこしの一環でしょうか?地域食のレシピ作りなんかも行っていたようです
今調べてみると「クサギ菜飯」は鳥の出汁をかけた汁かけ飯のようなもの
祖母が作ってくれたのはどんぶり風で汁は無し
うまいうまいとお替りをだいぶしました
歯が菜に食い込むときの独特の歯ごたえがありました
父の転勤で引っ越して千葉に来たときクサギを送ってくれました
乾燥した葉っぱを包装したものだから婦人会で商品化したのでしょうか?
食べたのか食べなかったのか、それすら覚えていません
結局、祖母の味ではなかったんでしょうね
高校生時分に亡くなった父方の祖母
祖父も千葉にやってきて同居することなりました
結局それ以降、20年以上田舎に自分は帰っていません
母方の祖母はピシッとした印象の強い人でした
いつでもきちんとした感じで農作業の多かった父方の祖母とは違う感じ
祖母の手料理は食べた記憶があまりありません
田舎に帰るのは大抵が夏休みや冬休み
同居の叔母を中心に帰省している叔母方がやっていたような気がします
子供達が遊ぶのはいつも祖母の幼稚園跡
もと幼稚園だけあってものすごく大きな板の間で十何人いとこが集まっても狭い感じはしませんでした
小さいころには元幼稚園だと言うことを知らず
「西阿知の家にはウチ(自分の家)が10軒入るね」
と言って大人たちに笑われました
でも本当に大きく立派な家でした
母屋から歯医者の治療室、応接間を経て離れへ向かう感じで
逆に進むと今度は幼稚園
下手にかくれんぼをすると相手を見つけることが出来ません
幼稚園の中だけとかルールを作ってました
幼稚園側の庭には畑とイチジクの木が
離れ側には立派な日本庭園がありました
苔むした庭園になっていて苔を荒らすとお祖父ちゃんに怒られました
庭石も立派なものがあって、子供にとってはちょっとしたステージだったり
上に登ると忍者になれるなんて従兄弟に騙されたり
母方と言うのもあるのでしょうか
あまり長い期間泊まっていなかった気がします
このためか何を食べたかの記憶も曖昧
カレー以外は海産物でしょうかね
倉敷は港にも近い海産物の豊富なところ
祖父が魚介が好きというのもあって新鮮なもんを食べていました
覚えているのは蝦蛄や蟹
生きているのを茹でるわけです
茹で上がり色の変わったのに驚き、美味しさに驚き
特に蝦蛄は大好物でした
勤めていたころ蝦蛄が食べたくて敷居の高い寿司屋に時々行きました
出てくる蝦蛄は美味しいのですが、やっぱり違いますね
自分では覚えていないのですが
幼児期にはタコを良く食べていたそうです
但し、最初はおお泣き
瀬戸内の地ダコの足を一本もらったのは良かったが、吸盤が怖くて持ったままビービー泣いたそうです
祖母が皮と吸盤の部分を削いで真っ白の身だけにしてくれました
ちゅーちゅーと吸うように食べ以降はお気に入りだったそうです
よっぽど面白かったのか帰省するたびに周りから聞かされそれこそ耳タコ
母方の祖父祖母の家はずいぶん前になくなってしまいました
バイパスを通すためだったそうです
それ以来ほとんど行ってないですね
葬儀、法要などの形式は大嫌いです
理由をつけてろくに出なかったり
でも、お盆の灯明と迎え火の煙のにおいは好きです
お盆には故人が帰ってくるという考え方も
お盆につらつら ― 2010年08月17日 12時53分20秒
今年のお盆は結局8月15日、16日と治療院をお休みにしました
(8月15日は定休、16日は臨時休診)
盆のお膳を見る傍ら少しだけ思い出した話
自分の祖父は父方も母方も従軍することはありませんでした
父方の祖父は視力の問題から徴兵不合格
母方の祖父は当時既に徴兵されるにはやや高齢だったことや健康面で
そんなことで二人とも戦争を生き延びたわけですが戦後は苦労したようです
父方の祖父は満州引き上げ組
これは祖父自身は語ったことは無いのですが・・・
徴兵にならなかったことも満州行きには影響してたのかな?と思います
当時、兵役につかない人間は酷い思いをしたそうです
祖父から聞くことは無かったので自分の想像でしか有りませんが兵役試験に合格できなかったことで満州に行かざるえなかったんじゃないかな
満州開拓は当時日本を挙げた国家事業でしたから「兵隊さん」になれなかった祖父には非国民にならない選択肢はそれしか無かったんじゃなかろうかと
32万人とも言われる開拓団、終戦後日本に引揚げできたのは11万人
(注 開拓団、引揚者は非戦闘員の数字だそうです)
引揚げにもその後の生活にも苦労したそうです
酔うと饒舌になる祖父でしたが満州の話や引揚げ後時の話はすることはありませんでした
話してくれたことで関係が満州に有ることといえば食べ物のことばかり
よく覚えているのは朝鮮漬け、いわゆるキムチです
田舎にいるころは冬には漬けていたようです
祖母の死後、同居するようになった祖父は市販のキムチを食べるたびに
「こりゃ朝鮮漬けじゃない」
なんて事を言ってました
「満州にいたころに向こうの朝鮮人に教わったのと違う」
とも
子供のころ田舎で迎える年越しは祖父の打った10割そば
ブツブツ切れやすいしお店のものとぜんぜん違う田舎そば
練る作業を一緒にしながら
「10割は湯で練らんとそばにならん」
と言いながら熱い湯でそばを練ってました
手先が器用でいろんなものを自分で作っていました
炭焼窯を自作したり、製材設備を持ってたり
祖父の作業場は子供のころの自分には天国でした
加治屋さんごっこで小火を出しかけたりイロイロ怒られましたね
自分でソーラー湯沸かし器なんかをお風呂に設置してました
この湯沸し、屋根の上に蓄熱用の水タンクをプラのパイプで自作したものだったのですがキチンとお湯になってました
マキをくべる手間が減るといってましたが一つ問題が・・・
温めたお湯を風呂に満たすとやや水量が足りない
容量を風呂釜に合わせたのはいいのですがパイプの総長を決める際に継ぎ手で重なる部分を計算に入れるのを忘れたそうです
「間抜けなことをした」
と笑ってましたっけ
母方の祖父も苦労したようです
とはいってもそのほとんどは祖母が受け持ったとか
地域の大地主という名家の出でいったんは警官になったそうです
でもそこで上司をぶん殴って退職
何故かその後歯医者になっていました
歯医者といえばものすごく儲かりそうですが、さにあらず
祖父は貧乏人からは一切お金をもらわなかったそうです
戦後は畑も田んぼも農地解放で一切失ってお金は無し
でも頑として貧しい人からは受け取らなかったそうです
日々のお金にも困る有様で、困った祖母が患者さんにこっそりお金を請求したら祖父から返してこいと怒鳴られたなんてこともあったようです
困った祖母は幼稚園を開いて糊口をしのいでいたとも
幼子心に怖い祖父でした
いたずらをすると本当に怒られる
歯医者の治療室スペースで遊ぼうものなら大目玉
見つからないように見つからないように遊んでいました
おじいちゃんの治療室はいつでも消毒液のにおいがして静かで
となりの書斎にはいっぱい本がありました
子供が読めるはずの無い本を引っ張り出して眺めていたのを覚えています
もう一つ覚えているのは冬に手あぶりストーブで焼いてくれたお餅
よく焼いて焦げ目をつけたお餅をおわんに入れ、軽く塩をしてお湯を注ぐ
しょっぱいのに美味しくて
母方の田舎でしか食べない“祖父の味”です
カレーライスに生卵とソース(しょうゆだったかも?)も祖父の食べ方でした
思い出すことといえば食いもんのことばかり
我ながらいやしいな、とも思います
でも味覚は最も原始的な感覚、感覚の根っこです
根っこに幸せな経験を残してくれたことは本当にありがたいことです
そんな思い出をつらつらと
(8月15日は定休、16日は臨時休診)
盆のお膳を見る傍ら少しだけ思い出した話
自分の祖父は父方も母方も従軍することはありませんでした
父方の祖父は視力の問題から徴兵不合格
母方の祖父は当時既に徴兵されるにはやや高齢だったことや健康面で
そんなことで二人とも戦争を生き延びたわけですが戦後は苦労したようです
父方の祖父は満州引き上げ組
これは祖父自身は語ったことは無いのですが・・・
徴兵にならなかったことも満州行きには影響してたのかな?と思います
当時、兵役につかない人間は酷い思いをしたそうです
祖父から聞くことは無かったので自分の想像でしか有りませんが兵役試験に合格できなかったことで満州に行かざるえなかったんじゃないかな
満州開拓は当時日本を挙げた国家事業でしたから「兵隊さん」になれなかった祖父には非国民にならない選択肢はそれしか無かったんじゃなかろうかと
32万人とも言われる開拓団、終戦後日本に引揚げできたのは11万人
(注 開拓団、引揚者は非戦闘員の数字だそうです)
引揚げにもその後の生活にも苦労したそうです
酔うと饒舌になる祖父でしたが満州の話や引揚げ後時の話はすることはありませんでした
話してくれたことで関係が満州に有ることといえば食べ物のことばかり
よく覚えているのは朝鮮漬け、いわゆるキムチです
田舎にいるころは冬には漬けていたようです
祖母の死後、同居するようになった祖父は市販のキムチを食べるたびに
「こりゃ朝鮮漬けじゃない」
なんて事を言ってました
「満州にいたころに向こうの朝鮮人に教わったのと違う」
とも
子供のころ田舎で迎える年越しは祖父の打った10割そば
ブツブツ切れやすいしお店のものとぜんぜん違う田舎そば
練る作業を一緒にしながら
「10割は湯で練らんとそばにならん」
と言いながら熱い湯でそばを練ってました
手先が器用でいろんなものを自分で作っていました
炭焼窯を自作したり、製材設備を持ってたり
祖父の作業場は子供のころの自分には天国でした
加治屋さんごっこで小火を出しかけたりイロイロ怒られましたね
自分でソーラー湯沸かし器なんかをお風呂に設置してました
この湯沸し、屋根の上に蓄熱用の水タンクをプラのパイプで自作したものだったのですがキチンとお湯になってました
マキをくべる手間が減るといってましたが一つ問題が・・・
温めたお湯を風呂に満たすとやや水量が足りない
容量を風呂釜に合わせたのはいいのですがパイプの総長を決める際に継ぎ手で重なる部分を計算に入れるのを忘れたそうです
「間抜けなことをした」
と笑ってましたっけ
母方の祖父も苦労したようです
とはいってもそのほとんどは祖母が受け持ったとか
地域の大地主という名家の出でいったんは警官になったそうです
でもそこで上司をぶん殴って退職
何故かその後歯医者になっていました
歯医者といえばものすごく儲かりそうですが、さにあらず
祖父は貧乏人からは一切お金をもらわなかったそうです
戦後は畑も田んぼも農地解放で一切失ってお金は無し
でも頑として貧しい人からは受け取らなかったそうです
日々のお金にも困る有様で、困った祖母が患者さんにこっそりお金を請求したら祖父から返してこいと怒鳴られたなんてこともあったようです
困った祖母は幼稚園を開いて糊口をしのいでいたとも
幼子心に怖い祖父でした
いたずらをすると本当に怒られる
歯医者の治療室スペースで遊ぼうものなら大目玉
見つからないように見つからないように遊んでいました
おじいちゃんの治療室はいつでも消毒液のにおいがして静かで
となりの書斎にはいっぱい本がありました
子供が読めるはずの無い本を引っ張り出して眺めていたのを覚えています
もう一つ覚えているのは冬に手あぶりストーブで焼いてくれたお餅
よく焼いて焦げ目をつけたお餅をおわんに入れ、軽く塩をしてお湯を注ぐ
しょっぱいのに美味しくて
母方の田舎でしか食べない“祖父の味”です
カレーライスに生卵とソース(しょうゆだったかも?)も祖父の食べ方でした
思い出すことといえば食いもんのことばかり
我ながらいやしいな、とも思います
でも味覚は最も原始的な感覚、感覚の根っこです
根っこに幸せな経験を残してくれたことは本当にありがたいことです
そんな思い出をつらつらと
岷江 新検見川 中華料理 ― 2010年08月14日 10時28分27秒
久しぶりに家族が集まって中華料理を食べに行きました
いったのは新検見川の岷江
どこにでもあるような普通の中華料理屋さんですがとても美味しいです
お勧めは青菜の炒めと魚介料理
久しぶりなのでアラカルトではなく4200円のコースを注文
足りないなら追加を頼もうと話していましたがコース料理だけでお腹いっぱいになりました
これは前菜
ぱっと見、中華料理ぽく無いのですが食べるとしっかり中華です
お約束でこれ以降の写真は有りません
姪っ子甥っ子に相手をしてもらっているうちに忘れました・・・orz
うろ覚えのメニューを紹介すると
○帆立貝の炒め物梅ソース
梅といっても梅酢のようで赤いソースでは無かったです
ほのかに香るという感じでホタテの香りを殺さず美味しかったです
○鶏肉とナッツの炒め物
ナッツはカリッと香ばしく唐辛子がしっかり効いてピリ辛
ビールが進みます
○フカヒレスープ
中華ハムと鶏肉も入っていたような気がします
個人的にフカヒレは姿煮よりもスープ仕立てのほうが好きです
○カレイの唐揚げ甘酢ソース
下ろした身のほうと骨の部分どちらも出てきます
身のほうは外はカリッと、でも中はぱさぱさにならないように、
骨のほうは頭からバリバリと食べれるようにしっかり揚げてあります
このメニュはこの店に来るときの楽しみの一つです
もちろんその時その時で魚の種類は変わります
○冬瓜の煮物
冬瓜の煮物、干し貝柱を使用していてとっても美味しいです
貝柱の炒め物と違う貝のうまみがいいです
○エビチリ
プリッとした小ぶりの海老が美味しいです
普段食べる海老よりも歯切れがいい感じで控えめの香りで美味しい
ブラックタイガーではないと思うのですが?
芝海老かな?
○冷やし麺
ほんの一口、二口の量ですが美味しい
もうちょっとと思うものの結構おなかはいっぱいです
○デザート
杏仁豆腐、マンゴープリン、マンゴーシャーベットから選べます
マンゴープリンを選びましたが美味しいです
杏仁豆腐もお勧めですがコンビニのパチモンとは違い香りがすごいです
逆にこの香りの性か姪っ子はコンビニのほうが得手のようです
以上が晩餐会のメニュー
いつ行っても安心して食べれる中華料理屋さんです
難点は立地
少し駅まで遠いのです(新検見川から10分)
でもこの味なら納得ですね
家族が皆、美味しくいただきました
いったのは新検見川の岷江
どこにでもあるような普通の中華料理屋さんですがとても美味しいです
お勧めは青菜の炒めと魚介料理
久しぶりなのでアラカルトではなく4200円のコースを注文
足りないなら追加を頼もうと話していましたがコース料理だけでお腹いっぱいになりました

これは前菜
ぱっと見、中華料理ぽく無いのですが食べるとしっかり中華です
お約束でこれ以降の写真は有りません
姪っ子甥っ子に相手をしてもらっているうちに忘れました・・・orz
うろ覚えのメニューを紹介すると
○帆立貝の炒め物梅ソース
梅といっても梅酢のようで赤いソースでは無かったです
ほのかに香るという感じでホタテの香りを殺さず美味しかったです
○鶏肉とナッツの炒め物
ナッツはカリッと香ばしく唐辛子がしっかり効いてピリ辛
ビールが進みます
○フカヒレスープ
中華ハムと鶏肉も入っていたような気がします
個人的にフカヒレは姿煮よりもスープ仕立てのほうが好きです
○カレイの唐揚げ甘酢ソース
下ろした身のほうと骨の部分どちらも出てきます
身のほうは外はカリッと、でも中はぱさぱさにならないように、
骨のほうは頭からバリバリと食べれるようにしっかり揚げてあります
このメニュはこの店に来るときの楽しみの一つです
もちろんその時その時で魚の種類は変わります
○冬瓜の煮物
冬瓜の煮物、干し貝柱を使用していてとっても美味しいです
貝柱の炒め物と違う貝のうまみがいいです
○エビチリ
プリッとした小ぶりの海老が美味しいです
普段食べる海老よりも歯切れがいい感じで控えめの香りで美味しい
ブラックタイガーではないと思うのですが?
芝海老かな?
○冷やし麺
ほんの一口、二口の量ですが美味しい
もうちょっとと思うものの結構おなかはいっぱいです
○デザート
杏仁豆腐、マンゴープリン、マンゴーシャーベットから選べます
マンゴープリンを選びましたが美味しいです
杏仁豆腐もお勧めですがコンビニのパチモンとは違い香りがすごいです
逆にこの香りの性か姪っ子はコンビニのほうが得手のようです
以上が晩餐会のメニュー
いつ行っても安心して食べれる中華料理屋さんです
難点は立地
少し駅まで遠いのです(新検見川から10分)
でもこの味なら納得ですね
家族が皆、美味しくいただきました
治療院開院日記 機材編3 ― 2010年08月13日 10時48分25秒
治療院開院に向けて導入した機材関連のお話の続き
○鍼・灸・あん摩機材
機材といっても使い捨ての鍼や消毒用器具、台座灸、灸頭鍼用灸など
あと新規に購入した手ぬぐいもあります
概算ではありますがこれら直接治療に使用するものが約7万円
実際には開業前から思いついてはこつこつ購入していました
ですから実際にはもっとかかっています
用意した鍼の種類は約20種(小児鍼、パイオネックス含む)
少な目ですがまずはこれらの鍼をきちんと使いこなせるようにと
サイズは1寸、1寸3分、1寸6分、2寸がメインという感じです
三寸も用意しましたがちょっと使いにくい鍼だったので別のものを発注済
ありがたいことに医道の日本社のネット販売がリードタイムが短く便利です
おかげで一種類あたりの在庫数はやや少なめでしょうか
○白衣
新調
相変わらずケーシーですが予備を含めて6着用意しました
約2.5万円
○リネン類
主にタオル類
ベッドシーツ代わりの大きなものからハンドタオルに至るまで
いくつかの業者のものを試し買いして2社のものを中心に
ホテルスタイルというパイルの多め長めの物を使用しています
厚めのタオルなので洗濯は大変ですが肌触りが気持ちがいいです
結構数が必要なので全部そろえたら4万ぐらいになりました
タオル灸に使うタオルは薄めのものを使用しています
厚いものよりかえって安物の方が使いやすいです
タオル灸自体あまりメインでは使用していませんが
○手洗い・掃除用品
結構細かくかかっています
手指洗い用のブラシや軽石ハンドソープ、クリームなどなど
掃除用具のほうは本当に膨大で掃除機から便所用の掃除ブラシまで
あげればキリがないです
ちなみに便所用のブラシは新製品の「シャット 流せるトイレブラシ」
ブラシ部分が使い捨てでトイレに流せるというのはイイナと
使ってみた感じはなかなか良い感じ
流せるといっても掃除中にブラシが分解することも無く、洗剤もついてる
そう考えるとなかなか良いものです
換えブラシ少しコストは高めですが治療院なら許容範囲では?
掃除機が約1.5万
なんだかんだで合計4万円程度使っています
これらは必要になるつど購入しているので入力が追いつかず
○会計ソフト
約1万
これは青色申告用に導入
まだまだ使いこなせていません
○工具、道具類・DIY関連
一番金額の把握が出来ていないものです
いくらぐらいだろう?
でかい工具類(電動ドライバー)や資材のほとんどは自宅のものを流用
父親の仕事?の関係で工作道具や資材はほとんど借りて済ませました
合わせて19万ほどでしょうか
細かなものでも積み重なると結構大きな金額になります
元の計画ではこういったもので10万程度かな?と考えていました
結局大幅に予算オーバー
現在もこの関連費用は膨らんでいます
本日の小計は約19万円
-開院までの総投資金額-
ここまでで約232万円
さらに挨拶用の贈答品や工事出入りの人への差し入れなどなど
でもまあこんなもんでしょうか?
参考にでもなれば
次回は覚えていないものを口座の残高と照らし合わせてみます
○鍼・灸・あん摩機材
機材といっても使い捨ての鍼や消毒用器具、台座灸、灸頭鍼用灸など
あと新規に購入した手ぬぐいもあります
概算ではありますがこれら直接治療に使用するものが約7万円
実際には開業前から思いついてはこつこつ購入していました
ですから実際にはもっとかかっています
用意した鍼の種類は約20種(小児鍼、パイオネックス含む)
少な目ですがまずはこれらの鍼をきちんと使いこなせるようにと
サイズは1寸、1寸3分、1寸6分、2寸がメインという感じです
三寸も用意しましたがちょっと使いにくい鍼だったので別のものを発注済
ありがたいことに医道の日本社のネット販売がリードタイムが短く便利です
おかげで一種類あたりの在庫数はやや少なめでしょうか
○白衣
新調
相変わらずケーシーですが予備を含めて6着用意しました
約2.5万円
○リネン類
主にタオル類
ベッドシーツ代わりの大きなものからハンドタオルに至るまで
いくつかの業者のものを試し買いして2社のものを中心に
ホテルスタイルというパイルの多め長めの物を使用しています
厚めのタオルなので洗濯は大変ですが肌触りが気持ちがいいです
結構数が必要なので全部そろえたら4万ぐらいになりました
タオル灸に使うタオルは薄めのものを使用しています
厚いものよりかえって安物の方が使いやすいです
タオル灸自体あまりメインでは使用していませんが
○手洗い・掃除用品
結構細かくかかっています
手指洗い用のブラシや軽石ハンドソープ、クリームなどなど
掃除用具のほうは本当に膨大で掃除機から便所用の掃除ブラシまで
あげればキリがないです
ちなみに便所用のブラシは新製品の「シャット 流せるトイレブラシ」
ブラシ部分が使い捨てでトイレに流せるというのはイイナと
使ってみた感じはなかなか良い感じ
流せるといっても掃除中にブラシが分解することも無く、洗剤もついてる
そう考えるとなかなか良いものです
換えブラシ少しコストは高めですが治療院なら許容範囲では?
掃除機が約1.5万
なんだかんだで合計4万円程度使っています
これらは必要になるつど購入しているので入力が追いつかず
○会計ソフト
約1万
これは青色申告用に導入
まだまだ使いこなせていません
○工具、道具類・DIY関連
一番金額の把握が出来ていないものです
いくらぐらいだろう?
でかい工具類(電動ドライバー)や資材のほとんどは自宅のものを流用
父親の仕事?の関係で工作道具や資材はほとんど借りて済ませました
合わせて19万ほどでしょうか
細かなものでも積み重なると結構大きな金額になります
元の計画ではこういったもので10万程度かな?と考えていました
結局大幅に予算オーバー
現在もこの関連費用は膨らんでいます
本日の小計は約19万円
-開院までの総投資金額-
ここまでで約232万円
さらに挨拶用の贈答品や工事出入りの人への差し入れなどなど
でもまあこんなもんでしょうか?
参考にでもなれば
次回は覚えていないものを口座の残高と照らし合わせてみます
治療院開院日記 機材編2 ― 2010年08月12日 15時18分43秒
治療院開院に向けて導入した機材関連のお話の続き
これはバックヤードに設置した棚
愛想のかけらも無い感じでものすごく気に入っています
イケアの格安商品でこの組み合わせにアレンジして約1.2万円
隣にどんどん継いでいけるので将来的にはあと3つぐらい増やす予定
下に写っているのは電話兼FAX兼コピー兼プリンタ兼スキャナー
マイナーなブラザー製ですがパソコンの接続は無線だわ、子機は2台あるわ便利です
これは約2.8万円
続いては家電がらみで
冷蔵庫が約3万円
たまたまヨドのネットで安売りしていたのでヨド店舗で同価格にて購入
かなり安めの価格でヨド店舗価格からは1.5万以上安くなりました
ビッグは自社のネット販売でも競合他社のネット販売(無店舗等は除く)で安売りしている場合、店舗でもそれを指摘するとすぐ値段が下がります
でもヨドバシでは聞いてから返答が出るまで結構時間がかかりました
自社の販売なのにナンデ?という感じです
まあ歳も歳なんでエゲツナク値切るようなことはせず、
「ヨドバシさんのネットではこうだけどこっちではいくらになるの?」
と聞く程度です
価格と説明に納得がいけば買うしいかなきゃ買いません
トースターレンジが約1.3万円
これが比較的オート機能が優秀で便利です
食器棚が0.7万円
空気清浄機が約3万円
こいつは頑張り屋さん
お灸の煙にも反応しますが手指消毒のアルコールにも反応
何より殺虫剤に一番反応します
お灸をしてもかなりの臭いを抑えてくれます
そのほかに窓用換気扇
この下で塩灸などの予備燃焼を行います
この換気扇はかなり高性能でお灸時以外にも重宝しています
これは約0.7万円
他にノートパソコン、ミニコンポなどがありますがこれらはもともとある私物
極力コストを抑えるべくやっています
本日の小計は約13万円
-開院までの総投資金額-
ここまでで約213万円
実はここからの細かいお金が思った以上にかかります

これはバックヤードに設置した棚
愛想のかけらも無い感じでものすごく気に入っています
イケアの格安商品でこの組み合わせにアレンジして約1.2万円
隣にどんどん継いでいけるので将来的にはあと3つぐらい増やす予定
下に写っているのは電話兼FAX兼コピー兼プリンタ兼スキャナー
マイナーなブラザー製ですがパソコンの接続は無線だわ、子機は2台あるわ便利です
これは約2.8万円

続いては家電がらみで
冷蔵庫が約3万円
たまたまヨドのネットで安売りしていたのでヨド店舗で同価格にて購入
かなり安めの価格でヨド店舗価格からは1.5万以上安くなりました
ビッグは自社のネット販売でも競合他社のネット販売(無店舗等は除く)で安売りしている場合、店舗でもそれを指摘するとすぐ値段が下がります
でもヨドバシでは聞いてから返答が出るまで結構時間がかかりました
自社の販売なのにナンデ?という感じです
まあ歳も歳なんでエゲツナク値切るようなことはせず、
「ヨドバシさんのネットではこうだけどこっちではいくらになるの?」
と聞く程度です
価格と説明に納得がいけば買うしいかなきゃ買いません
トースターレンジが約1.3万円
これが比較的オート機能が優秀で便利です
食器棚が0.7万円

空気清浄機が約3万円
こいつは頑張り屋さん
お灸の煙にも反応しますが手指消毒のアルコールにも反応
何より殺虫剤に一番反応します
お灸をしてもかなりの臭いを抑えてくれます

そのほかに窓用換気扇
この下で塩灸などの予備燃焼を行います
この換気扇はかなり高性能でお灸時以外にも重宝しています
これは約0.7万円
他にノートパソコン、ミニコンポなどがありますがこれらはもともとある私物
極力コストを抑えるべくやっています
本日の小計は約13万円
-開院までの総投資金額-
ここまでで約213万円
実はここからの細かいお金が思った以上にかかります
治療院開院日記 機材編1 ― 2010年08月11日 17時06分59秒
治療院開院に向けて導入した機材関連のお話
まだ経費入力が完了していないため大きなものから
まずは一番肝心なベッド
これは高田ベッドのグッチシリーズ
巾90×長さ190と巨大です
高さについては自分は身長がデカイので高めにしています
定価13.6万円ほど実際にはかなり割り引いてもらってます
(注 まとめ買いで詳細な単価は不明)
写真のように2台購入しています
使い心地は極上です
横向きでも骨盤の当たる部分が痛くなったりしません
施術でデカイ(ホントに)自分が乗ってもギシリとも言いません
これは道具入れ
鍼などを入れるのでスチール製の鍵のかかるものを選びました
コクヨなどはあまりに高くて手が出ませんでした
これは安物
つくりはやや雑イですが実用に問題は無し
こちらは待合室用のソファーと同色ビニールレザーのスツール
ソファーは巾180と大きいです
ベッドと一緒に購入しています
この他に治療時の補助いすとして丸スツールを3台も一緒に購入しています
ソファーはイケヤや格安の家具屋のものを買えば安くはなります
でも座面の高さが低く足腰の悪い人には向きません
これも有って医療用待合ソファーで座面の高いものを発注しています
ソファーが定価で10万円ほど
スツール(ひまわりチェアー)が2万円ほど
丸スツールは安めのものを買っています
これはパーティション
治療室と待合室の間仕切りに使用
これもコクヨなどではびっくりするほど高価
特に天井まで区切るアルミのやつは高い
保健所への相談時、高さ180cmならOKとの解釈をいただいたので
半固定型
半固定とは言ってもかなり重く容易には動かせません
これも安いのを探しました
とりあえずこんなところで具体的な金額を出していくと
○ベッド他(注)
定価約43万円 → 約22万円
○スチール棚
約2.7万円
○パーテーション
約3.8万円
注について
ベッド2台、待合ソファー1台、ひまわりチェア2台、スツール3台
これにクッション小2、丸枕大1でまとめて購入しています
定価合計 43万円を越えるぐらいでしょうか
数社に見積もりを取って最安で22万ほど最高で28万ほど
いろいろあたってみるのが吉です
ちなみに安いところは組み立てサービスがつかない事が多いです
ベッドは重いから体力に自信が無いなら任せたほうがいいですよ
ちなみに一人でも組み立てられました
とりあえず思いつくものから購入していったものを書き込んでいます
-開院までの総投資金額-
ここまでで約200万円
まだまだお金がかかります
まだ経費入力が完了していないため大きなものから

まずは一番肝心なベッド
これは高田ベッドのグッチシリーズ
巾90×長さ190と巨大です
高さについては自分は身長がデカイので高めにしています
定価13.6万円ほど実際にはかなり割り引いてもらってます
(注 まとめ買いで詳細な単価は不明)

写真のように2台購入しています
使い心地は極上です
横向きでも骨盤の当たる部分が痛くなったりしません
施術でデカイ(ホントに)自分が乗ってもギシリとも言いません

これは道具入れ
鍼などを入れるのでスチール製の鍵のかかるものを選びました
コクヨなどはあまりに高くて手が出ませんでした
これは安物
つくりはやや雑イですが実用に問題は無し

こちらは待合室用のソファーと同色ビニールレザーのスツール
ソファーは巾180と大きいです
ベッドと一緒に購入しています
この他に治療時の補助いすとして丸スツールを3台も一緒に購入しています
ソファーはイケヤや格安の家具屋のものを買えば安くはなります
でも座面の高さが低く足腰の悪い人には向きません
これも有って医療用待合ソファーで座面の高いものを発注しています
ソファーが定価で10万円ほど
スツール(ひまわりチェアー)が2万円ほど
丸スツールは安めのものを買っています

これはパーティション
治療室と待合室の間仕切りに使用
これもコクヨなどではびっくりするほど高価
特に天井まで区切るアルミのやつは高い
保健所への相談時、高さ180cmならOKとの解釈をいただいたので
半固定型
半固定とは言ってもかなり重く容易には動かせません
これも安いのを探しました
とりあえずこんなところで具体的な金額を出していくと
○ベッド他(注)
定価約43万円 → 約22万円
○スチール棚
約2.7万円
○パーテーション
約3.8万円
注について
ベッド2台、待合ソファー1台、ひまわりチェア2台、スツール3台
これにクッション小2、丸枕大1でまとめて購入しています
定価合計 43万円を越えるぐらいでしょうか
数社に見積もりを取って最安で22万ほど最高で28万ほど
いろいろあたってみるのが吉です
ちなみに安いところは組み立てサービスがつかない事が多いです
ベッドは重いから体力に自信が無いなら任せたほうがいいですよ
ちなみに一人でも組み立てられました
とりあえず思いつくものから購入していったものを書き込んでいます
-開院までの総投資金額-
ここまでで約200万円
まだまだお金がかかります
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