トルコの旅 ドゥバヤジット2007年02月11日 19時29分59秒

試験2週間前、元気に引きこもり&逃避活動に余念のないたまごです。

まさかのトランジットビザのため、イラン入国以降の日程はタイトになる予定。
このため本来は宿泊せずにも抜けれるこの街で一泊します。



これはバスの中からの風景
トルコの最後の街、ドゥバヤジットにやってきました。
まあ、どんどん高地へ向かってますのでまぶしいほどの雪景色に

もうトルコには戻ってこないかと思うと・・・飯はしっかりトルコ飯にしなければ。
(このときにはまさか・・・・・)



バス停でバスのおっちゃんたちに別れを告げて町に向かいます。



街のメインストリート。
ここから見える正面の山がアララト山。
伝説では“ノアの箱舟”が漂着した場所として有名です。



両替をしたり、国境までの情報を収集したりイランに向けた準備でトルコ最後の街も終わりです。

明日はあの山の向こう側へ・・・


次はイラン入国です!




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トルコの旅 エルズルム22007年02月10日 05時26分16秒

イランの国境にも程近いこの街にはセルジューク朝の様式の建物が多い。
セルジューク朝はおよそ1000年前に栄えた王朝で今のイラン・イラクを中心にトルコ、アフガニスタン、カザフスタンとここ一帯を治めていた。



これは「チフテ・ミナーレ」セルジューク朝時代の建物でもともとは神学校だったらしい。



最も特徴的なのが二本並んだミナーレの装飾。
見ていただければ解るが、煉瓦にトルコ石を思わせるターコイズブルーのタイルで装飾されている。

実は一瞬、本物のトルコ石かしら?と思ったのだが、トルコ石は一般的に日光に弱く外装の装飾には向かないものなのでおそらくタイルでしょう。

この頃には既にタイルの製法で作られたトルコ石のイミテーションもあったようですし。



これは、中庭からの様子。
ミナーレが本当にイイです。



こっちはイル・ハーン朝時代に立てられた「ヤクティエ神学校」
イル・ハーン朝は、かのチンギスハーンの孫のフレグが起こした王朝。
でも、セルジューク朝に時代が近いため、建築様式などは非常に似ていたりします。



これは塔の縄紋模様。
やはりブルーのタイルによる装飾が見事です。



結局のところビザですが、早い話がダメでした。
と言うわけで広大なイランの国土を5日間で駆け抜けなくてはなりません!

何が腹立つ?といって最も腹が立つのは・・・・
 30日のツーリストビザも5日間のトランジットビザも・・・価格は一緒
 →50ドル
ともかくこれが一番腹が立つ!

ともあれ次回は国境の町、ドゥバヤジットです。


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トルコの旅 エルズルム12007年02月08日 07時59分45秒

ここでも懲りもせずに失敗をやらかしたわけで・・・
またもやきっちり確認もせずにバスに乗り込んでしまったのだ。

アンカラを出て7時間ほどたった頃だろうか、運ちゃんの「エルズルムだよ」と言う声に起こされて寝ぼけながらバスを降りると・・・・ここはどこ?状態。
てっきりオトガル(バスターミナル)に着くと思い込んで乗ったバスは経由便・・・・
要はエルズルム近くの幹線道路で下ろされたということで。
しかも時間は午前3時。
周りには雪が積もり、携帯している簡易気温計はマイナス10度の計測限界を振り切っている。

寝ぼけた頭も冷気と緊急事態に一瞬で目覚め、周囲の状況を確認すると・・・
幸いなことに、降ろされた場所の道路の配置状況と事前に見ておいた地図からすると1時間ほど歩けば宿のある街中に着くと思われる場所だった。
この程度ならトラブルでもなんでもないとばかりに歩き始めることにする。

アンカラからなんか厄を背負い込んでいる感があるなあ、などと考えながら歩くと、10分ほどエルズルムのインフォメーションセンター(当然営業しているはずは無い)を過ぎ自分の進行方向が間違っていなかったことを確認できた。

丁度そこにパトカーが通りかかる。
案の定職質を受けた訳で、日本人の旅行者でホテルまで行くというとごパトカーに乗っけてくれた上でホテルまで送ってくれると言う。
ありがたく同乗させてもらってホテルに向かうと、さらに丁寧なことにフロントをたたき起こしてホテルに放り込んでくれた。
(しみじみ思うが、中東各地、私の会った警官に悪いやつはいなかったなあ)

暖かい部屋で少し仮眠して起き出し、フロントに顏を出して正式なチェックイン手続をして到着の朝の分を含め、明日までの二白分の料金を払おうとすると一泊で良いとおっちゃんが言ってくれた。
朝早くにたたき起こした事もあり、それでは申し訳ないので一泊半の分を宿泊費とさせてもらい、半泊分をチップとして渡させてもらった。



ホテルの近くのエルズルムの路地。



もういっっぽん裏手に入ると雪も積もってこんな感じ。



写真を取っていたら変なおっちゃんが画面に割り込んできた。
まあしょうがないと取った一枚。



イスタンブールやアンカラに比べるとずいぶんと保守的になってきつつある。
道行く女性にチャドル姿が多くなった。
(チャドルはイスラムのドレスコードの一つ、写真の女性の黒衣のこと)

イランが近いせいだろうか?
ぼーっと考えながら歩いていたら、もっとイランの影響を受けているものを見つけた。

続きは明日。




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トルコの旅 アンカラ32007年02月06日 21時43分36秒

アナトリアって何 ?  →トルコのある半島

トルコは黒海と地中海に突き出た半島部分で国土の多くを占めています。
この半島部分をアナトリア半島というそうです。
詳しくは→”ウィキペディアへ”

まあ、結局アナトリア文明博物館はトルコの昔の遺物を展示しているところということですな。



名家の倉庫を改装というこの博物館。
中に入って天井を見上げてみると、なるほど簡素です。
でも煉瓦で構成されたと思しきアーチは結構好みです。



これは各地で出土したレリーフ。
いろんな所のレリーフがここに集められています。
中には出土地にはレプリカを置いて本物はこの博物館に来ているものもあったりします。



これはレリーフの一つ。
そんなに有名なものでは無いのですがなんとなく気に入って撮りました。



レリーフだけではなく金属製の様々な出土品も展示されています。

これはスタンダードといわれる青銅製の遺物。
スタンダードなどと名前は付いていますが実際に何に使われていたかは不明。
儀式に使ったとか、象徴とか諸説様々ありますがわかっていません。


そしてこの地を訪れた最大の理由がこの遺物です。



ここに収められた遺物の中でも最も有名なものでしょう。
 「大地母神の坐像」
ふくよかな姿が豊穣をあらわしたこの像は日本に居たときから見てみたかった物です。

曽野綾子さんのエッセイ「バァバちゃんの土地」でこの像と思しき記載があります。
ギリシャ神話のアフロディテやアルテミス、エジプト神話のイシスの元とも言われるこのキュベレ(大地母神)像、筆者はハマーム(トルコの蒸し風呂)にいた垢すりのおばさんにそっくりと書いていますが、なるほどその通り。

まさしくトルコのおばちゃんです。

トルコの文化というのでしょうか?
「結婚後の女性が痩せている=不幸」
という図式があるようです。

そのためか中年以上のオバチャンの多くはまさしくこの像のよう。
見事なまでに肥えています。
不思議なのは若い娘には太った娘はいないんです。
というか、無茶苦茶スレンダー。

それが結婚後は・・・・・という話。
まあここら辺の話は、「わたしもトルコで考えた」というエッセイ漫画に詳しいのでそちらも機会があればご覧になってみてください。
この変化の理由がわかります。

さて、次はビザ取りエルズルムです。


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アナトリアって→ 結局→ 半島かい→

トルコの旅 アンカラ22007年02月05日 21時13分39秒

一夜明けて、シャワーを浴びたら覚悟が決まりました。
今日もう一度行ってダメならエルズルムの領事館でビザを取ろう。
もしトランジット(5日間ビザ)しか取れなかったら、5日でイランを抜けてやろう!

というわけで大使館に向かうも玉砕・・・エルズルム行きが決定します。

仕方がないのでテクテクと歩いて博物館に向かいます。



イスタンブールと同じくアンカラも坂の街。
実は標高も高く、850mに位置しているとのことです。
そのせいもあって朝は結構寒かったりします。



エッチラオッチラ坂を上るとやがて城砦のような物が見えてきます。
トルコ国旗の掲げられたそれはアンカラ城です。

この城砦はもともとは東ローマ帝国の時代に建てられたといわれています。
もともとの部分は約2300年前というのですからすごいものです。



この城砦を見ながら右に回りこむように進むと目的の博物館が見えてきます。

 アナトリア文明博物館

元は名家の倉庫だったというこの建物に様々なアナトリア文明に関わる収蔵物が展示されています。
その中でもある展示物を見たくてここまでやってきたようなもんです。

続きは明日にでも。


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ビザ小話2007年02月04日 02時52分09秒

博物館の紹介の前にビザの小話。

イスタンブールでインドビザを取得したときのこと。
実はこのインド領事館の領事、意外と難敵。
通常は2週間で下りるビザが下りない事もあったりする。

丁度同じ時期にビザ取りをした女の子は色々難癖を付けられ結局4週間近くかかったようだ。
予定ではインドは行かないのだけれど何らかの問題でパキスタン-中国の国境が閉じた場合のためにビザを取っておくことに。
しかし、4週間もかかるようでは大問題!
今後の予定に大きく差し障ってしまう。

まあ、取らないわけにもいかないので気合をいれてビザの申請に。

洋服も襟付きに、ジーンズでなくチノパンというように気合を入れていった領事館では・・・

   →いきなり一時間以上待たされる・・・orz

やっと申請できるかと思ったら、わら半紙に今までの旅のルートを書けといわれる。
仕方がないので記入をしてやっと申請。
と思ったら今度は偉そうなおっさんが面談してくる。

「君は何でインドに行きたいのか?」
「何で日本でビザを取ってこなかったのか?」
「薬物はやらないだろうな?」

ねちねちと20分ほど質問をされた後にやっと申請ができた。
で、2週間後に取りに来いという言葉がもらえて、やっと終了と思ったら

「君の英語はなってないな、プッ」
てな感じのことをいわれた。
「ちょっ、待て、インド訛り丸出しのあんたには言われたくない!!」
と心で叫びながら
「ビジネスではプロの通訳を雇っていたものでなかなか上達しませんな」
と笑って返した。
そしたら
「インドではすべての国民が英語を話せるから勉強したまえ」
と言われた。

ある意味、ビザ取得で最も忍耐力のいる相手であった。
さすがは悠久の国インド、恐るべし。
ある意味、イスラム圏の「インシアッラー」という言葉すら凌駕している気がする。

ビザを申請する側の旅人のある意味生殺与奪の全てを握るのが領事や大使。
そういう意味ではうまくこなしていく事も重要だったりするのかも。




待たされている間、あまりに暇だったので領事館に飾られていた木造のヒンドゥー教の神様なんぞをノートに写して時間をつぶしていた。
ちなみに飾ってあったのは“ガネーシャ像”



本当は4本腕の神様なはず、でも4本腕には見えなかったんだよな。

今にして思えばネタとしては面白かった。
ちなみにビザの仕事が混んでいるとこんな対応にはならず、機械的に処理されるらしい。
結局、遊ばれていたということでしょう。


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トルコの旅 アンカラ12007年02月03日 21時16分12秒

トルコの首都アンカラにやってきました。
目的は二つ。ビザの取得と博物館訪問。

まずは第一の目的であるビザ取得。
既にイスタンブールで訪問予定国のパキスタンと訪問予定の国で問題が起こった場合のための予備ルートとしてインドのビザは取得済み。

アンカラで取得するのはイランビザとアフガニスタンビザ。

イランビザはイスタンブールでもし取得できたが待ち時間が二週間かかる。
アフガニスタンビザはイスタンブールでは取得不可能。
取得可能な地でも基本的に日本大使館のレターが必要なところが多くいためここで取得。
アンカラでは日本大使館のレターがあれば即日発行!
2003年当時、タリバーンとの戦争が終了してからまだ1年。
政情不安定ということで日本大使館は一般客にはレターをなかなか発行しません。
でも、ここアンカラのアフガニスタン大使館ではレター無しにビザが即日発行!
というわけでアンカラにやって来たわけです。

綿密な計算に基づき
 日本大使館→イラン大使館→アフガニスタン大使館→博物館
 という0泊でアンカラを抜けるルートを構築。

イスタンブールからの深夜バスがアンカラに到着して即座に行動開始。

   →いきなり道に迷う・・・orz



これはアンカラの風景。

結局、写真の様などこを見ても同じような風景を見ながら2時間ほど放浪の後に要塞のような日本大使館を発見。
(まあ、深夜バスなんで2時間迷ってもまだ会館時間前・・・)
なんかすごいぞ、テロリストの車爆弾防止の為とおもわれる鋼鉄製の車止めが凄い。
持ち物検査でカメラやピクニックナイフを預けて館内に入ってレターの申請を行う。

申請書を書いて、事務官のネーチャンに手渡したら不気味な情報が・・・

「レターの発行は出来ますけど、ここ一週間ほど
   イランのツーリストビザの発行が停止しているみたいなんです」


寝耳に水です。
なんでと聞くと・・・

「何でもビザ用の書類だかシールがなくなって本国からの発送待ちだそうで・・・」

まあ、一週間前からの話なら取りあえず行ってみます。
という訳でレターを受け取って大使館に向かいます。




一時間後、アフガニスタン大使館に程近い出来たばかりのショッピングモールで私は頭を抱えていました。
「“FORM”が無いってどういうことよ?」
「ツーリスト(一ヶ月)はダメだけどトランジット(5日)なら出せるって・・・
 大体、イランを陸路で抜けるだけで3日間バスに乗らないといかんのに
  どうせーっちゅうねん」

結局、トランジットならエルズルムでも即日取得が可能ということで、エルズルムでチャレンジをすることに。
ツーリストが欲しいので月に10日ほどしか開かないという噂のトラブゾン領事館(ここならツーリストも可能)での取得も視野に入れて行動を変更します。

対照的にアフガニスタンのビザは驚くほど簡単に入手できました。



朝から大荷物(約40kg)を抱えてさまよい続けたあげくにビザ取得できず。
疲れきってアタチュルク像近くの安宿に一泊することにしました。
こういうときは取りあえず寝る。
寝て体力ゲージを戻してから考える。
これも旅では大切。
翌日、博物館めぐりをしてからビザのことを考えることにしました。



折角取得したアフガニスタンビザ。
まさかあんな事になるとは予想だにしませんでした。

次は博物館


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トルコの旅 イスタンブール112007年02月01日 22時15分50秒

またもや忘れていた10月のイスタンブールの風景をチラホラ。



イスタンブールの新市街、ハルビエという所辺りのモスク。
近くに大きな広場があり、たくさんの人が日向ぼっこしていた。
ちなみに寺院の名は知らん。
場所もちょっとうろ覚え・・・



こちらも新市街の風景。
イスタンブールは旧市街も新市街も坂の町。
ちょっと路地をのぞくと坂になっていて、思いも付かないところから海が見える。

写真の坂はとても緩やかなものですが煉瓦の階段と石畳の組み合わせが良い。



こちらは旧市街、エミノニュにそびえるイエニジャミイというモスク。
寺院前の広場に大量の鳩が居り、鳩の寺院としても有名。

側にはグランドバザールとともに有名なバザールのエジプシャンバザールがある。
写真を良く見ると尖塔のうち向かって右側は工事中。
この工事費用もバザールの店賃より寄進されているとの事。



ちなみにこれはイスタンブールで泊まった宿の風景。
2002年10月ごろの写真です。
皆、元気でいますか?


ここでイスタンブールのお話は終わりに。
イスタン三度目の訪問(2003年2月)を終え、トルコの首都アンカラにビザと博物館の旅に。


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イスタンブール→ 滞在合計→ 4ヶ月→

トルコの旅 イスタンブール102007年01月31日 00時19分45秒

期末試験の真っ最中ですが勉強もせずに更新更新。


本来はイスタンブール訪問3回目のときの話を書いていたのですが、2回目の訪問時に言った場所で紹介したいところがあったのでそちらを紹介。

イスタンブールは新市街にある軍事博物館。
まあ、展示自体はたいしたこと無いのですが面白いイベントがあるということと、近くのシリア大使館(領事館?)にビザの申請をしに行った関係で訪れました。



何がなんだか解らないでしょう?



これは前庭にある巨大な大砲(列車砲?)
上に登ることも出来ます。
(もちろんいい歳した大人ですから率先して上ります)



これは同じく博物館敷地内に展示してある“F-104戦闘機”。
前に立っているのは私だったりします・・・
まあ、NATOがらみで供給された機体なんでしょうね。


大砲にまたがったり、飛行機に乗ったりが目的ではなく、本来の目的というかこの博物館の唯一の目玉(失礼)は別のものだったりします。



それがこれ。
軍楽隊による演奏です。

軍楽隊といってもいわゆるブラバンスタイルとはちょっと違う。
オスマントルコスタイルの演奏を見ることが出来るんです。

演出も非常に凝っていて、写真に見えるように中庭から演奏をしながらオスマントルコ時代の衣装を纏った楽団がホールに入場してきます。



これがまた凄いんですな。

オスマントルコの軍隊は当時世界最強を誇ったわけですが、その一因にこの楽団があったといわれています。
楽団が打ち物、鳴り物を盛大に奏でながら軍団が侵攻するわけですからその圧力は相当なものだったと思います。

ホールでの演奏を聞いても非常に迫力のある演奏でしたから、ハイ。



こちらはアップの写真。(ちょっとブレてます)

オスマントルコの楽団ですから、楽団員は皆立派なひげをはやしています。
ただし、これも現在のトルコのご時世でしょうか?
立派な口ひげをはやす人は、若い層を中心に年々減っているそうです。
このため、楽団でも結構な人数が付け髭使用者。

写真に写っている楽団員も、あからさまに立派な髭はみんなつけ髭。
顏は若いのに異様に立派な付け髭の人もいたりしてそんなところも面白い。


演奏を見る・聞くだけでなく、付け髭探しも面白い軍楽団の演奏でした。



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付け髭!→ 洗うの?→ 洗わないの?→

トルコの旅 イスタンブール再々-152007年01月28日 13時12分21秒

カーリエ美術館のすぐ側にもう一つ見ておくべきものがあります。
とはいっても非常に長大なこの遺物、ちょっと足を伸ばせばイスタンブールのあちこちで見ることが出来ます。
それは「テオドシウスの城砦」イスタンブールの旧市街を取り囲むように作られた城壁です。
この城壁、ローマ・ビザンツ時代から存在しておりコンスタンティノープル陥落時も崩れることのなかった強固なものです。

じゃあ何でコンスタンティノープルは落ちたのかと言うと・・・鍵の閉め忘れとの事。
どんな強固な城砦もそれじゃダメですわな。
何事も管理する人次第、こればっかりは今も昔も変わらない気がします。



カーリエ美術館からの行き方は極めて簡単。
目の前に見える道路をただただ坂の上に向かって登るのみ。
非常に簡単にたどり着くことが出来ます。



城砦の表面を見ると結構バラバラ・・・
まあ何世代にもわたって修復されているそうですからね。
まあ、この程度はご愛嬌でしょうね。



こんなおっちゃん達が修復しています。
中東をあちこち旅していていろんな地域の修復風景を見ているのですが、共通しているのは従事する人皆作業着ではない事。
個人の請負なのでしょうか、皆バラバラの服装。
この辺りもお国柄なのでしょうかね?



見栄えの良い城砦を探して壁伝いにうろうろするとこんな風景にあたりました。
もう修復というより新築事業な感じ。
これで良いのかしら?と感じてしまいます。



こういう感じのほうがなんとなくいい感じです。
まあ修復・新築の城砦も10年もすれば500年以上前からそこに在るかのような風情になるのかもしれませんが・・・


ちなみに一個だけですが修復作業のお手伝いで石を積みました。
あの城砦を作った(修復した)のはワシとも言えます。



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