お盆につらつら2010年08月17日 12時53分20秒

今年のお盆は結局8月15日、16日と治療院をお休みにしました
(8月15日は定休、16日は臨時休診)

盆のお膳を見る傍ら少しだけ思い出した話



自分の祖父は父方も母方も従軍することはありませんでした
父方の祖父は視力の問題から徴兵不合格
母方の祖父は当時既に徴兵されるにはやや高齢だったことや健康面で
そんなことで二人とも戦争を生き延びたわけですが戦後は苦労したようです

父方の祖父は満州引き上げ組
これは祖父自身は語ったことは無いのですが・・・
徴兵にならなかったことも満州行きには影響してたのかな?と思います
当時、兵役につかない人間は酷い思いをしたそうです
祖父から聞くことは無かったので自分の想像でしか有りませんが兵役試験に合格できなかったことで満州に行かざるえなかったんじゃないかな
満州開拓は当時日本を挙げた国家事業でしたから「兵隊さん」になれなかった祖父には非国民にならない選択肢はそれしか無かったんじゃなかろうかと

32万人とも言われる開拓団、終戦後日本に引揚げできたのは11万人
(注 開拓団、引揚者は非戦闘員の数字だそうです)
引揚げにもその後の生活にも苦労したそうです
酔うと饒舌になる祖父でしたが満州の話や引揚げ後時の話はすることはありませんでした

話してくれたことで関係が満州に有ることといえば食べ物のことばかり
よく覚えているのは朝鮮漬け、いわゆるキムチです
田舎にいるころは冬には漬けていたようです
祖母の死後、同居するようになった祖父は市販のキムチを食べるたびに
「こりゃ朝鮮漬けじゃない」
なんて事を言ってました
「満州にいたころに向こうの朝鮮人に教わったのと違う」
とも

子供のころ田舎で迎える年越しは祖父の打った10割そば
ブツブツ切れやすいしお店のものとぜんぜん違う田舎そば
練る作業を一緒にしながら
「10割は湯で練らんとそばにならん」
と言いながら熱い湯でそばを練ってました

手先が器用でいろんなものを自分で作っていました
炭焼窯を自作したり、製材設備を持ってたり
祖父の作業場は子供のころの自分には天国でした
加治屋さんごっこで小火を出しかけたりイロイロ怒られましたね

自分でソーラー湯沸かし器なんかをお風呂に設置してました
この湯沸し、屋根の上に蓄熱用の水タンクをプラのパイプで自作したものだったのですがキチンとお湯になってました
マキをくべる手間が減るといってましたが一つ問題が・・・

温めたお湯を風呂に満たすとやや水量が足りない
容量を風呂釜に合わせたのはいいのですがパイプの総長を決める際に継ぎ手で重なる部分を計算に入れるのを忘れたそうです
「間抜けなことをした」
と笑ってましたっけ



母方の祖父も苦労したようです
とはいってもそのほとんどは祖母が受け持ったとか
地域の大地主という名家の出でいったんは警官になったそうです
でもそこで上司をぶん殴って退職
何故かその後歯医者になっていました

歯医者といえばものすごく儲かりそうですが、さにあらず
祖父は貧乏人からは一切お金をもらわなかったそうです
戦後は畑も田んぼも農地解放で一切失ってお金は無し
でも頑として貧しい人からは受け取らなかったそうです

日々のお金にも困る有様で、困った祖母が患者さんにこっそりお金を請求したら祖父から返してこいと怒鳴られたなんてこともあったようです
困った祖母は幼稚園を開いて糊口をしのいでいたとも

幼子心に怖い祖父でした
いたずらをすると本当に怒られる
歯医者の治療室スペースで遊ぼうものなら大目玉
見つからないように見つからないように遊んでいました
おじいちゃんの治療室はいつでも消毒液のにおいがして静かで
となりの書斎にはいっぱい本がありました
子供が読めるはずの無い本を引っ張り出して眺めていたのを覚えています

もう一つ覚えているのは冬に手あぶりストーブで焼いてくれたお餅
よく焼いて焦げ目をつけたお餅をおわんに入れ、軽く塩をしてお湯を注ぐ
しょっぱいのに美味しくて
母方の田舎でしか食べない“祖父の味”です
カレーライスに生卵とソース(しょうゆだったかも?)も祖父の食べ方でした


思い出すことといえば食いもんのことばかり
我ながらいやしいな、とも思います
でも味覚は最も原始的な感覚、感覚の根っこです
根っこに幸せな経験を残してくれたことは本当にありがたいことです

そんな思い出をつらつらと